自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1664冊目】ジグムンド・バウマン&デイヴィッド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』

ずいぶん長い邦題だが、本書の内容は、ある意味この邦題に尽きている。ちなみに原題は「リキッド・サーベイランス」といたってシンプル。バウマンの提唱する「リキッド・モダニティ」という概念がベースになっている。

リキッド・モダニティとは、直訳すれば「液状化(流動化)する近代」。その特徴は、本書でライアンがまとめているとおり「社会的形態の溶解や権力と政治の分離」(p.18)だ。以前、バウマンの『コミュニティ』を紹介した際、「リキッド・ソサエティ」について「国家や共同体といった制度がそれぞれの領域を堅持し、いわば棲み分けができていた時代が終わり、資本主義(特にグローバリズム)や大衆社会の進展によってお互いの境界線が溶解してきた」と要約したことがあるが、意味合いは近い。

さて、ではこうした「リキッド・モダニティ」たる現代において「サーベイランス」つまり「監視」のありようはどうなったか、というのが本書のテーマなのだが、これだけだとなんだか唐突な印象だと思うので、まずは流動化する前の社会における「監視」の状況を見てみよう。

旧来の監視社会モデルとして有名なのはパノプティコンである。聞いたことはあるだろうか。これは監獄における監視モデルであり「各部屋を半円形に配置して管理しやすくするよう設計されており、中央の監視塔にいる「監視者」は、ブラインドの背後から、被収容者に見られることなく、すべての部屋を見渡すことができる」(p.16)というシロモノだ。ミシェル・フーコーが、このパノプティコン型監視モデルを「近代的な権力の典型的なメタファー」として導入したことで有名になった。

ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に出てくるビッグブラザーも有名だ。まあ、国家権力による国民の監視といえば定番だろう。このオーウェル型、あるいはフーコー型の監視モデルの特徴は、監視者と被監視者が画然と分けられており、被監視者は監視されることを望んでいないこと、とまとめることができる。

何を言っているんだ、「監視されることを望む」なんて、そんなことあるワケないじゃないか、と思われるかもしれないが、本書がリキッド・モダニティ下の監視状況として描き出すのは、まさしく「監視されることを望んで監視される」人々の姿なのだ。この状況をバウマンとライアンは「ポスト・パノプティコンと呼ぶ。

そこではもはや、監視する者と監視される者ははっきりとは区別されない。人々は、なかば気付かないうちに、自らを監視対象として積極的に差し出すようになっている。いわば「権力者」とか「ビッグブラザー」のような、わかりやすい(言い換えれば悪役っぽい)監視者は、もはや見当たらないのである。

例えば、amazonのリコメンデーション・サービスはどうか。人々は本やDVDの購入履歴をamazonに提供し、amazonがそれをもとに送ってくる「おすすめ品」を見て、さらに購入を行う。ここでは、まさしく消費者が率先して自らの購入履歴をamazonに提供し、amazonはマーケティングを行う代わりに、ピンポイントで「売り込み」を行うことができる。

あるいは、ツイッターやブログ、フェイスブックはどうか。ここでは人々は進んで自らの行動や思想、さらには趣味嗜好などをネット上に晒している(この「読書ノート」だって、読書という局面に限定してだが、進んで自らの情報を提供しているといってよい)。特に実名ブログやフェイスブックは、積極的情報垂れ流しシステムであり、監視カメラを自分自身に向けているのとあまり変わらない。

もう少しワクを広げると、実際の監視カメラや、さまざまなセキュリティシステムによる監視がある。ゲイテッド・コミュニティの例を挙げるまでもなく、今やあらゆる場所に監視カメラが設置され、監視が行われている……それも、監視される側の要望によって。こうした状況を著者らは「DIY監視」と呼ぶ。Do It Yourself、つまり自らで自らを監視し、その内容を世界にばらまいているのだ。

旧来型の(パノプティコン型、あるいはビッグブラザー型)監視とはずいぶん違う……が、政府や権力機構が行うものではないから、こうした監視には問題はない、と言えるだろうか。いやいや、そうではない。むしろこうしたDIY監視、ポスト・パノプティコン型監視のほうが、目に見えづらく、自覚しにくい危険性をはらんでいるとも言える。

例えばamazonのような購入履歴の監視は、「欠陥ある消費者」の排除にも利用できる。監視カメラやセキュリティシステムの過度の導入は、富める者と貧しい者の分断につながりなけない。監視技術の発達は、監視対象を「モノ」として扱うことになりかねず、対面していないがゆえに「道徳的な後ろめたさを免れることができる」。

読んでいてギョッとしたのは、われわれの多くが今や「セキュリティ中毒」にかかっているという指摘であった。本書で引用されているアンナ・ミントンの言葉を孫引きさせてもらうと「安全に対する需要には中毒的な性格があり、どれほど手にしても十分でないと思うようになり、中毒性のある薬のように、いったんそれに慣れると、それなしでいられなくなる」(p.137)のだという。

なまじこうしたことが可能なレベルのセキュリティ技術があるからこそ、不安がかえって煽り立てられる。監視装置で周囲を固めれば固めるほど、「不安全(インセキュリティ)」への不安は増幅する。この状況が危険なのは、こうした不安や恐怖心が、得てしてマイノリティへの差別や排除に結びつきやすい点だ。西洋の場合として著者(ライアン)は、テロリズムに結び付けてのアラブ・ムスリムへの差別、疾病リスクへの恐怖に基づく排除(HIV感染者への差別等のことか)などを挙げているが、日本でも思い当たるフシはなくもない。

さらに、危ないものをすべて封じ込めようとする姿勢は、監視をむしろ強め、規律と秩序を偏重することにつながる。まさに「監視は結局のところ、フーコーが切り離した規律と安全を結びつける」(p.140)のだ。かつては、監視は権力が行うことであり、われわれの安全は監視をやめさせることの先にあった。今は、むしろ人々の側が権力に監視の強化を望み、また自らも監視を行う。そして排除と封じ込めのため、政治や行政の権力をむしろ強化しようとするのである。

だが……行政の側にいる人間がこういうことを言うのも妙な話だが……いつから「権力」はそんなに無害で安全な存在になったのだろうか。われわれはセキュリティ中毒のあまり、ひょっとするともっとも危険な存在になりかねない権力というものを、無自覚に信頼しすぎ、権限を委ねすぎてはいないだろうか……?

コミュニティ 安全と自由の戦場 監獄の誕生―監視と処罰 一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)