【2596冊目】穂村弘『はじめての短歌』
「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」
「空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋は散らかっている」
いきなり2つの短歌を並べましたが、最初のものが平岡あみさんという方(当時中学生だったとのこと)がつくったもの、後に書いた方はそれをもとにつくった「改悪例」です。
2013年の短歌入門講座がもとになっているこの本は、実際の短歌と並べて「改悪例」を載せているのです。ふつうは出来の悪い作品を挙げて「直し」をしてみせるのですが、逆なのです。「プレバト」とはだいぶ違いますね。
さて、冒頭の短歌で言えば「そういう状態」を「散らかっている」に直しているわけですが、世間一般の基準でいえば「散らかっている」のほうが良しとされることが多いと思います。「そういう状態」というだけじゃなんだかわかりませんからね。
でも、短歌ではこれが逆になる。たぶん詩や俳句でも同じでしょう。「そういう状態」と言われると、一瞬考える。想像する。その一瞬がコミュニケーションなのですね。本書では「0.5秒のコミュニケーション」と言っていますが、そういうこと。
いわゆる「ふつうの生活」と短歌では、価値が逆転するのです。どうでもいいこと、瑣末なことがもっとも大事なことであり、効率や合理化からこぼれ落ちたものに宝がある。ふつうの生活において価値があるもの、役に立つもの、それを著者は「生きのびる」と言いますが、生きのびるよりも「生きる」ことに属するのが短歌なのです。
「目薬は赤い目薬が効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす」(河野裕子)
「目薬はVロートクールが効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす」(改悪例2)
「生きのびる」ためには「Vロートクール」でなければいけません。赤い目薬じゃなんだかわからない。でも短歌では、やはり「赤い目薬」なのですね。なんといっても記憶に残ります。そして、著者によれば「『生きる』ためにはOKなものをはかる尺度はシンプルなもので、それは忘れられないかどうか」(p.88)なのだそうです。そういうものがたくさんある人生こそが「生きている」人生なのですね。
しかし、私たちの生活のほとんどは「生きのびる」ことを中心に組み立てられてしまっています。なので「生きる」ためには、社会とのチューニングを、意図的にちょっとずらす必要があるのです。もちろんずらしっぱなしでは生きづらいことこの上ないでしょうが、たまにはやってみると、人生楽しくなりそうです。短歌とはそういう、生きることを再発見するためのメソッドにもなりうるわけですね。