自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2465冊目】パトリック・ジュースキント『香水』

 

ある人殺しの物語 香水 (文春文庫)

ある人殺しの物語 香水 (文春文庫)

 

 

生まれつき人間離れした嗅覚をもつグルヌイユが主人公。なんといっても、グルヌイユの視点(嗅点?)からの「匂いによって描かれる世界」が圧巻だ。

悪臭渦巻く18世紀のパリで産み落とされた。堕胎を繰り返していた母親は死刑になり、孤児として放り出されたグルヌイユは、たぐいまれな嗅覚を武器に香水調合師の弟子に潜り込む。初日にしてこれまでの常識を超えるものすごい香水を生み出したグルヌイユだが、放浪と流転の末に目指したのは、人間の匂いを閉じこめるためのとんでもない方法だった……

「グルヌイユは知っていた。人間は目なら閉じられる。壮大なもの、恐ろしいこと、美しいものを前にして、目蓋を閉じられる。耳だってふさげる。美しいメロディーや、耳ざわりな音に応じて、両耳を開け閉めできる。だが、匂いばかりは逃れられない。それというのも、匂いは呼吸の兄弟であるからだ。人はすべて臭気とともにやってくる。生きているかぎり、拒むことはできない。匂いそのものが人の只中へと入っていく。胸に問いかけて即決で好悪を決める。嫌悪と欲情、愛と憎悪を即座に決めさせる。匂いを支配する者は、人の心を支配する」(p.216)

まさしく人の心を支配し、世界を支配する力に目覚めたグルヌイユ。だが、実は彼自身は匂いをもたない人間だった。匂いによって構成された世界にあって、グルヌイユは支配者であると同時に、そこから疎外され、排除された者でもあったのだ。

考えてみれば、グルヌイユほど孤独な人間はいない。グルヌイユの見ている、否、嗅いでいる世界は、他の誰とも共有できない。人の心を狂わせる力をもつグルヌイユだが、自らはその仲間には決して入れない。自分の力を実感すればするほど、同時に底なしの孤独が深まっていく。最後にグルヌイユが選んだ方法の、なんと痛切で切実なことか。

ちなみに本書、池内紀さんの翻訳による「語りの力」が素晴らしい。読み手を呑み込んでいくような、強烈な文章は、まさにこの小説にぴったりだ。腐った魚の悪臭から至上の香水の香りまで、絢爛たる「匂いの世界」へ、ようこそ。