自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2446冊目】エイドリアン・オーウェン『生存する意識』

 

生存する意識――植物状態の患者と対話する

生存する意識――植物状態の患者と対話する

 

 

生命維持装置につながれ生きていることはできるが、全く何の反応も示さない、いわゆる植物状態になると、人は、物事を認識することもできない。今までは、そのように考えられてきた。だが、そのうちの一部は、実は完全に意識が保たれ、周囲の様子を見ることも、会話を聞き、理解することもできているとしたら? 

最初の気づきは、ケイトという患者にスクリーンセーバーを見せることで得られた。Windowsマークが飛び交う、昔懐かしい「フライングウィンドウズ」というスクリーンセーバーを目の前に置くと、ケイトの脳の視覚野が活気づいたのだ。植物状態であっても、何らかの刺激に脳が反応することが、ここでわかった。だが問題は、それが「意識的な」ものであるかどうか、だ。ケイトの脳はWindowsマークの視覚的刺激に機械的に反応したのか。あるいは、ケイトにはそれが「見えて」いるのか?

難問だった。技術的限界もあった。当時使われていたPETスキャナーは、せいぜい分単位で反応を測定することしかできず、放射線を浴びるため長時間の使用もできなかった。だがその後、fMRI(機能式磁気共鳴画像法)スキャナーが登場した。放射線負荷の限度がなく、しかも脳の変化を刻々と捉えることができる。問題は、ケイトのような患者が「意識をもっている」かどうかを、どうやって確かめるか。そこで著者は、突然のひらめきを得る。本書の(前半に登場するが)最大の「クライマックス」である。

「そして、そのとき私の頭に答えが閃いた。最近メラニーがそのときのことを思い出して言ったとおり、私は突然『テニスはどうだ!?』と叫んでいた。
 このアイデアを思いついたのは、それが六月下旬で、ウィンブルドンのテニス選手権大会の真っ最中だったからかもしれない。毎年夏になるとユニットの人々は、クロッケー用の芝生でのお茶の合間に、そこからわずか一二〇キロメートルほどの南ロンドンにあるコートでの試合のラジオ中継に耳を傾けたものだ。あるいは、テニスのアイデアを思いついたのは、ただの偶然の幸運だったかもしれない。だが、それが決定的な瞬間であり、転機であり、すべてが変わった節目だった。一〇年近くかけて積み重ねてきた思考が絶頂に達し、ケイトやデビーやケヴィンのような患者の心を解明することが、ついに可能になったのだ」(p.109-110)

実際、この発案はすばらしかった。テニスの未経験者であっても、テニスが「ラケットを腕で振る」スポーツだということは知っている。そして、テニスをイメージする人は100パーセント「腕を振る」動作をする。これがサッカーだと、ボールを蹴る、走る、ヘディングするなどいろんな動作がありうる。それではダメなのだ。著者たちが欲しかったのは、その問いに答えた時に必ず脳の特定の部分が反応するような質問だったのだから(実際にはこれと「自宅を歩き回るところを想像してください」の2種類が用意された)。

例えば植物状態の患者に「父親の名前はテリーですか? 答えがノーであれば、テニスをするところを想像してください」と質問すれば、「答え」が返ってくるのである。質問は他にもいろいろ考えられるが、イエス・ノーで答えられなければならず、曖昧さがあってはならない。それでも、このアイディアによって、植物状態の患者にこんなことを尋ねられるようになったのだ。「痛みはありますか」「あなたは幸せですか」「死にたいと思いますか」……

この「質問」を、著者らのチームは多くの植物状態の患者に試した。その結果、15~20パーセントが、実は意識をもっており、いわば「体の中に閉じこめられた」状態であることがわかったという。このことは、例えば植物状態になったからといって生命維持装置を外すことが許されるかどうかという、倫理的な判断にも大きな影響を与える。いやいや、、自分だったら、もし周囲が認識できていたとしても、そんな状態だったら死んだ方がマシ、と思われるだろうか? だが、ここに衝撃的な調査結果がある。上の方法で植物状態だが意識のある人々に対して「今は幸せか」と尋ねたところ、回答した人の72パーセントが「幸せだ」と回答したのである。一方、安楽死を望むと回答した患者は、わずか7パーセントであった。

他にも本書には、「映画を観る」ことで意識の有無を確認する方法が登場する。映画を観るなかで健常者が示す感情(恐怖、興奮、安堵、笑いなど)はおおむね同期する。では、植物状態の人はどうだろうか?

結論から言えば、植物状態の人の一部は映画を観て同じような感情の揺れ動きを経験したのであって、意識があったことが明らかになる。面白いのはその際の映画として使われたのが、ヒッチコックの作品であるということ。「脳はヒッチコックの映画が大好きだ。ほかの多くの映画よりも好きであることがわかった。それはおそらく、彼の作品が私たちに、考え、恐れ、予想し、期待し、反応することを強いるからだろう。ヒッチコックの映画は、見る人に意識的経験を共有させるようにできている」(p.215-216)とのこと。さすがはサスペンスの帝王である。

もちろん、繰り返しになるが、植物状態の人すべてに意識が残存しているわけではない。だが、意識が身体という監獄に何年も、何十年も閉じこめられてきた多くの人間が存在することも、また事実。本書はまさに、そのことを世に知らしめた記念碑的な一冊なのである。