自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2102冊目】『現代思想 緊急特集 相模原障害者殺傷事件』

 

 
鮮烈にして濃密な一冊。雑誌ではあるが、その内容はそこらの書籍100冊を超える。

刺さる言葉が満ちている。そこで、一人の著者から一言ずつを引き抜いて、並べ替えることで本書の内容を示してみよう。なお、個人的に印象に残った箇所を引用しているので、必ずしも当該執筆者の主張そのものを引き抜いているとは限らない。当然、孫引きもある。念のため。

「すべての現象には特異性と普遍性がある。事件も例外ではない。ところが事件が注目されればされるほどメディア(社会)は特異性ばかりに注目し、その帰結として犯人は理解不能なモンスターに造形される。ならば事件から教訓を学んだり再発防止策を講じたりすることなど不可能だ」(森達也

 



「植松でありえた自分を自分の中に無理にでも見い出すだけの想像力が必要だ」(岡原正幸)

 



「今回の事件の容疑者の”病状”がたとえどのようなものであれ(”病気”ではなかったとしても)、精神医療福祉の支援、より広くは犯罪人の更生支援も含む対人支援の基本は、人間関係における信頼である」(高木俊介)

 



「思想は医療では治らないし、治すべきでもない。そんな当たり前のことを忘却して、便利な治安装置を精神科医療に担わせようとしてきたのが今の政府のあり方である」(桐原尚之)

 



精神障害者は再犯の怖れが完璧になくなるまで隔離せよという主張は、「障害者に生きる価値はない」とする植松容疑者の主張とほとんど重なり合う」(斎藤環

 

 

「怒りとは相手が存在することを認め、自分と相手が繋がっていることを前提とした感情だ。だから怒りには葛藤がある。(略)しかし、憎悪とは相手が存在すること自体を拒絶する感情だ。憎悪に葛藤はない」(荒井裕樹)

 



「相模原事件の加害者は、自分が弱者になることに想像力を持たなかったのだろうか? 自分がケアする側から、ケアされる側に廻る可能性を。犯人は「呼び掛けて反応がない相手を殺した」と言うが、自分自身が呼び掛けられても反応できなくなったとしても、安心して生かしてもらえることを期待しなかったのだろうか?」(上野千鶴子

 

 

「今まさに、共生社会の胆力が試されている。ここで安易に誰かを他者化して、そこに問題を押し付けて、一見解決したかのような装いで、また何事もなかったかのように社会が、回復した風情で回り始めることだけは、避けなければならない」(熊谷晋一郎)

 



「今回の事件は容疑者個人だけの問題ではなく、社会全体が持っている誤った考えや感情が引き起こしていると考えられます」(船橋裕晶)

 

 

「そうである。私たちは次のように言えなくてはならないのだ。他人に迷惑をかけてもよいのだ、と。いや、もっと先に行く必要があるかもしれない。ときには、他人に迷惑をかけるべきだ、と。私たちは、場合によっては、他人に迷惑をかけることを望まれてさえいるのだ、と」(大澤真幸

 



「歴史が語られないまま忘れられることの恐ろしさ。語られる歴史の、語り方がもたらす恐ろしさ。語る側の責任。そしてまた、聞く側の姿勢、語られたことの何を聞き、どう受け止め、そこから何を学ぶのか、あるいは学ばないのか」(大谷いづみ)

 



「日本では「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に掲げた優生保護法が1996年まで続いた。障害者や関係者の粘り強い運動でようやく廃止されたが、優生保護法下で行われた不妊手術は16,500件に及ぶ」(尾上浩二 数字はアラビア数字に改めた)

 



「そもそも、彼の言う「障害者はいなくなれば良い」という思想は、今の社会で、想像もできない荒唐無稽なものになり得ているでしょうか。現実には、胎児に障害があるとわかったら中絶を選ぶ率が90パーセントを超える社会です。障害があることが理由で、学校や会社やお店や公共交通機関など、至るところで存在することを拒まれる社会です。重度の障害をもてば、尊厳を持って生きることは許されず、尊厳を持って死ぬことだけを許可する法律が作られようとしている社会です」(中尾悦子)

 



「以前ならば、ダウン症児の出生は偶然性の問題であった。ところが今日は、ダウン症やその他の遺伝的障害を持つ子どもの親の多くが、周囲からの非難や自責の念を感じている。以前ならば運命によって決まるとされていた領域が、今では選択の舞台になっているのである」(マイケル・サンデル/明戸隆浩の文章より孫引き)

 



「最初の指標は「救命可能かどうか」だったはずなのに、いつのまにか「QOL」へと指標がシフトしている。それにともなって医療現場にも一般社会にも、「重い障害のためにQOLの低い生は生きるに値しない」「したがって医療資源を使うにも値しない」という価値観が広がっているのではないだろうか」(児玉真美)

 



「弱く意気地のない生き損ないで結構じやないですか!/がしかし残念なことに、これでは現実の社会で通用いたしません。そこで私達は、安楽死や自殺や精神異常によつて、社会とその政治に挑戦し、盛大に現代文明の血祭りを開催しなければ不可ないと思います」(大仏空(おさらぎあきら)/立岩真也の文章より孫引き)

 



「能力による命の線引きが行われる社会では、人々は自分についても他人についても、能力にばかり目を向けることになる。そこでは、人の価値は身体的能力や精神的能力によってのみ規定される。しかし、そもそも人間のかけがえのなさは、その人の能力とは別のところにあるはずだ。こうした問題意識から、障害者解放運動は「どこに線を引くかを決めること」よりも「線を引くことそのものを見直すこと」を求めているのではないか」(廣野俊輔)

 



「能力図がある。得点を結ぶとギザギザの多角形になる。だが調査項目を増やし、しかもそれが測れない項目となれば、いびつな多角形は円に近付き、無際限に拡がってしまうだろう」(最首悟

 

 

障碍者は競争できないし、現代社会で働くこともままならないし、兵隊になって戦争もできないし、そのような視点から観ると、いたって平和でのんびりとした人間なのである。世界中の人間が、平和で時間に縛られないのんびりとした障碍者の存在を認識し、共に生きることを選択すれば、社会(世界)は変化していくと私は信じる」(白石清春

 



「「客体化の否定」という観点から見るとき、優生思想を否定する理由は、そもそも「人の価値」を論じること自体が誤りだからだ。善意の人が「障害者もみんなを笑顔にしてくれる」とか「障害者も経済活動に貢献できる」などと議論をするのを見ることがあるが、それは、知らず知らずのうちに優生思想のペースに乗せられてしまっているということになろう」(木村草太)

 



「「優秀な人間や健常者は生きる意味があるが、障害者は無意味だ(役立つ障害者だけが生きる意味がある)」という優生的な価値観は根本的に間違っている、と言うだけではない。むしろ「障害者だろうが健全者だろうが、優れた人間だろうが何だろうが、人間の生には平等に意味がない」と言わねばならない」(杉田俊介

 



「翻って、相模原での事件に関する報道について振り返ると、被害者を「我々」の側に位置付けようとする姿勢は、初めから決定的に欠けていたように思えてならない」(星加良司)

 



「この事件をめぐる状況において、私が当惑するのは、殺された人が語らない人であることにされている点だ。当然、殺された人は語ることができない。彼ら、彼女らは、殺される以前から語ることができない人にされていた」(猪瀬浩平)

 



「本当に彼らは施設入所しかありえないほど、重度の障碍者だったのだろうか。地域での支援体制さえ整っていれば、施設に入らなくてもよかった方々なのではないか」(渡邉琢)

 



「今回の事件は、ケアの社会化(脱家族化)の一つの帰結と言えるかもしれない。だが、ケアの社会化をその施設化とイコールで結ぶ必要はまったくない。いや、日本の障害者運動、特に自立生活運動は、両者をイコールで結ばせない道を切り開いてきたのである」(市野川容孝

 



「基本的にケアは静かなものだ。そのことを理解しない者が介護者の姿を見て「生気の欠けた瞳」と解釈するのかもしれないが、それは誤りだ。介護者の瞳は、生気が欠けているわけでもなく、といって生気が満ち満ちているわけでもない。人間の生の呼吸を聴きながら、生活を淡々と丁寧に支えていくための知恵を身体化しているにすぎない」(深田耕一郎)

 



「容疑者はむしろ障害者は無力で生きる価値がないと主張する。しかしながら、職員自身も無力であってそれに気づかせてくれるのも彼らなのだ」(西角純志)