自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2828冊目】アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』

 

 

前作『カササギ殺人事件』では、前代未聞の「入れ子状ミステリ」に驚愕しました。

 

ミステリの中にもうひとつのミステリを仕込むなんて、こんな仕掛けが可能であること自体が驚異でしたが、だったらこの『ヨルガオ殺人事件』は、どう評すればよいのでしょうか。

 

なにしろ本作は二度目の「入れ子状ミステリ」であって、しかも前作を上回る(と私は感じた)面白さなのです。

 

★★★

 

メインの登場人物は同じで、舞台は前作の二年後。前作のラストで、ロンドンでの編集者人生から、愛する人と一緒にギリシャでホテルを経営する道を選んだスーザンのもとに、イギリスからある手紙が届きます。

 

それは8年前にあるホテルで起きた殺人事件に関するもので、すでに逮捕された犯人は無実であり、しかもその真相はスーザンがかつて世に送り出したアラン・コンウェイ著『愚行の代償』に書かれているというのです。

 

ここから8年前の事件をめぐる謎解きがはじまります。しかも、手紙の送り主であるトレハーン夫妻の娘であって、コンウェイの本に隠された「真相」を見つけたと告げたセシリーは、その翌日に行方不明になっている。つまり、これは現在進行形の事件でもあるわけですね。

 

さらに、コンウェイは8年前の事件の現場に居合わせて真相を見抜き、そのホテルに関わる人々を作品の登場人物のモデルにしたというややこしさ。したがって、『愚行の代償』は現実の事件と重なり合っているらしいのですが、これが本作における「作中作」にあたります。

 

★★★

 

こちらは前作同様、名探偵アティカス・ピュントを主人公とした、クリスティを思わせる超王道のミステリで、上巻の後半三分の一くらいから下巻の半分過ぎくらいまでを占めています。

 

この作中作が実際の事件のヒントになっている・・・・・・わけなんですが、ところが、ですね。これがもう、単体のミステリとしても、嫌味なくらいものすごくよくできているんです。しかもその中に「現在」の事件に関するヒントを隠しつつ。

 

そして、下巻の後半はその謎解きに費やされるわけですが、これもまた見事なもの。ひとつひとつの作品が極上で、しかも一方の中にもうひとつの事件のヒントを仕込むという、信じられないアクロバットに、この作品は成功しているんです。

 

まさにとんでもない作品であって、ホロヴィッツの凄みをガツンと突きつけられる。本作でホロヴィッツは「このミス」四連覇とのことだが、快進撃はまだまだ続くことでしょう。今年出るという新作が今から楽しみです。

 

最後までお読みいただき,ありがとうございました!

【2827冊目】泡坂妻夫『しあわせの書 迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』

 

 

著者は推理小説家にしてマジシャンとして知られる作家ですが、本書はどちらかというと「マジシャン」としての手際があざやかな一冊です。

 

推理小説の中には、トリックのために物語が作られているものも少なくありませんが、それにしても、それをここまで徹底した本はめずらしいと思います。

 

実際、正直言って、物語としてはそれほどぱっとしない印象でした。

 

にもかかわらず、多分この本のことを忘れることはないでしょう。

 

これは、そういう本なのです。

 

これ以上はどうやって書いてもネタバレになってしまうので、今日はこのへんで。

 

ドラマや筋書きを楽しみたい人には合わないでしょうが、とにかくトリックに驚きたい、という人なら楽しめると思いますよ。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

【2826冊目】ディーリア・オーエンス『ザリガニの鳴くところ』

 

世界中で1000万部以上売れたという本書は、なんと70歳の動物学者が書いた初めての小説だそうです。

 

でも、それも読んで納得。

 

確かにこれは、動物学者でなければ書けない小説です。

 

★★★

 

本書はディテールが際立っています。

 

沼地の自然の描写の美しさに、カイアの研究する沼地の生物のありよう。

 

随所に、動物学者としての目が活きています。

 

そんな「沼地」の包み込むような存在感があってこそ、この物語は光り輝いているのでしょう。

 

★★★

 

物語はなんとも切なく、痛ましく、それでいて、とても美しいものでした。

 

一方でチェイスという青年の死をめぐる謎に、スリリングな裁判シーン。

 

青春小説、恋愛小説、成長小説、ミステリと、さまざまな要素が盛り込まれているのですが、

 

沼地というトポスにすべてが包み込まれ、見事にバランスが取れているのがすばらしいですね。

 

その中心になっているのは、カイアという人間の魅力でしょう。

 

読む前は、単なる沼地の野生児、せいぜい『もののけ姫』のサンみたいな存在かと思っていましたが、

 

このカイア、独学で沼地の生物を研究して本を出すほどの知性もあり、

 

幼なじみの恋人テイトに教わった詩を楽しむ感性もある。

 

その人物像の厚みが、この物語をとても豊かなものにしています。

 

ハックルベリー・フィンとレイチェル・カーソンを足して二で割ったような、といったら良いでしょうか。

 

まあ、とにかく素晴らしい小説であることには変わりないので、未読の方は、ぜひ手にとってほしいと思います。

 

最後までお読みいただき,ありがとうございました!

【2825冊目】吉村萬壱『ボラード病』

 

村田沙耶香『地球星人』を紹介した際、ある人からオススメいただいた一冊。やっと読めました。

 

『地球星人』を受けてのリコメンドという時点で、相当ヤバいことが想像されるわけですが、

 

読んでみたら予想以上のヤバさ。

 

『地球星人』ほどの破壊力はありませんが、じわじわとこちらの精神を蝕んでいくような小説です。

 

海塚市という架空の町が舞台。一人の少女の視点で綴られています。

 

この少女自体もいろんな意味で生きにくさを抱えていて、妄想癖があったり、母との関係もだいぶ病んでいたりするのですが、

 

読んでいくとそれよりも、舞台の海塚市自体の気持ち悪さが際立ってきます。

 

とにかく住民の、市への愛着の度合いが並外れているんです。

 

みんなで市の歌を歌い、

 

市の海産物を絶賛し、

 

住民総出で海辺でゴミ拾いをしたり、

 

なんて書いても、別に異様だとは思わないでしょう。

 

私も、最初はそうでした。

 

でも、読むうちにじわじわと「来る」んです。内臓に手を伸ばされ、触られるように、この町の気持ち悪さが迫ってくるんです。

 

さらに、ここでは同級生が次々に死に、

 

市を批判した人は行方不明となり、

 

反抗的な若者を警官がいきなり袋叩きにします。

 

少女の異常さ、少女と母の関係の異常さ、少女が通う学校の異常さ、そして町全体の異常さ。

 

何重もの異常さが、ここでは入れ子のように描かれています。

 

むしろ町の異様さに抗うことが母の異様さを生み、母の異様さに抗うことが少女の異様さを生み出している、とも言えるでしょう。

 

この点については、文庫版の解説で、いとうせいこうがきわめて的確に表現していますので、最後にそこを引用します。

 

「私たち人間は、小説という悪夢によって社会が強要する悪夢から醒め、読後に新しい個人的な悪夢を獲得するべきなのだ」

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

【2824冊目】國分功一郎『中動態の世界』

 

ケアをめぐる良書を量産されておられる「シリーズ ケアをひらく」の一冊です。


はいえ、内容はかなりガチの思想書、あるいは思想史に近いものになっています。


登場する名前も、アリストテレスバンヴェニストデリダハイデッガードゥルーズ、ハンナ・アレント、そしてスピノザと、名前を見るだけで恐れ入ってしまうようなメンツがずらりと並んでいます。


にもかかかわらず、本書に書かれている内容は、ケアの現場にも深く関係するものです。


そのことがよくわかるのが、冒頭に出てくる「ある対話」です。おそらく依存症と思われる人と著者自身と思われる人の会話なのだが、そこではこんなコトバが語られているのです。

 

「しっかりとした意志をもって、努力して『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」

 

 

 

「僕の友人でも、『回復とは回復し続けること』って言葉の意味が全然分からなかったという人がいるんですよ」

 

 

 

「そうやって理解しようとしてくれている人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね

 

 

 

この本で著者がやろうとしているのは、おそらく、この断絶に思想的なアプローチから橋をかける試みであるように思います。


それは言い換えれば、「能動」と「受動」の二者択一の枠組みを解体すること。


そこでキーワードとなってくるのが、本書のタイトルにもある「中動態」なのです。


★★★

 

著者はまず、言語の歴史の古層を辿ります。


もともとは「能動態」と「中動態」の対立があったところ、


それがいつしか「能動態」と「受動態」の対立に置き換わっていった。


さらに、ハンナ・アレントの言う「意志とはそれまでの過去から切り離された絶対的なはじまり」であるとする主張を反転させ、


いかなる行為も絶対的に自由ではありえないという主張を、スピノザの思想を踏まえて展開します。


興味深いのは、そこでアレントが挙げたというカツアゲのたとえです(さすがにアレントは「カツアゲ」とは言いませんが)。


以前、著者の『はじめてのスピノザ』を読んだ時にもでてきましたが、面白いので再度取り上げます。


「銃を突きつけられて財布を渡す行為は自発的と言えるか」という、アレですね。


アレントはこれを、物理的な強制がないのだから自発的行為であると言っているそうです。


でも、本当にそうでしょうか。


そもそもこういう場面において、能動と受動、自発的と非自発的という二者択一を当てはめることは妥当でしょうか。


ここで(本書では紆余曲折ののちに)出てくるのがスピノザです。


スピノザは「私の行為や思考が、私の力としての本質によって説明されうるとき、それらは能動的である」(p.261)と言ったそうです。


この「力」は「必然性」とも言い換えられます。


「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ」(p.262)


したがって、カツアゲのようなケースは外部からの強制による行為であるため、能動的とは言えない、ということになるのです。


しかし、これを「受動的」と言ってしまうのも違和感があります。


そこで(歴史的にいえば)復権すべきなのが、中動態という概念なのだ、と著者は言うのです。


中動態とは、このような「周囲からの強制に基づいて自ら行為する」ことなのです。


しかし、スピノザのいう「自分の本質に沿った行為」を続けることは、現代社会のなかでは難しいように思います。


そこには法律もあるし、周囲との付き合いもあるし、過去のトラウマに縛られることもある。


だから、われわれの行為は、「中動態」がデフォルトである、とも言えるのです。その中でいかに自らの内在的な本質に向き合っていくか、いわばスピノザ的な意味での能動性を確保するか、という点に、誰もが苦闘しているのです。


この間読んだ『海と毒薬』の医師や看護師たちの姿を本書にあてはめてみると、彼らもまた、中動態的な状況のみによって「捕虜の生体解剖」という行為に至ったということになるのでしょう。


そこでブレーキとなるべきだったのは、自らの人間としての本質という能動性だったのか、あるいは法規範という別の中動性だったのか。


そして、では、彼らの責任についてはどう考えるべきなのか、ということになってくるわけなのですが、この点が以前読んだ『〈責任〉の生成』のテーマにつながってくるのですね。

 

最後までお読みいただき,ありがとうございました!