自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2789冊目】國分功一郎『はじめてのスピノザ』


この間、熊谷晋一郎との対談を読んで気になったので、単著を読んでみました。それに、スピノザは、今までとっつきづらいイメージがあって敬遠していたのですが、対談の中で解説されていたスピノザの自由論がとても魅力的だったので。


カツアゲの例えが面白いですね。銃をもった相手から「カネを出せ」と脅されて、自らポケットに手を入れて金を渡す「私」の行為は、さて能動か受動か(これじゃカツアゲというより強盗ですが)。


行為それ自体だけを見れば、カツアゲされているとはいえ「自らポケットに手を入れてお金を渡す」わけですから、これは能動とも思えます。でも、スピノザはそうではなく、「その行為が誰のどのような力を表現しているか」に着目するそうです。そうすると、「銃で脅してくる相手にお金を渡す」という行為においては、相手の力のほうがより多いと考えられる。だから、この行為は受動だと見るのです。一方、誰からも求められないのに自らお金を出して募金箱に入れる、となると、この行為は能動ではないかと考えられます。


スピノザ的に言えば、これが「自由」なのです。「自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います」(p.110)と本書には書かれています。そして、そうした「自らの力」「自らの本質」を実現しようとする力を「コナトゥス」と呼ぶのです。


ここで大事なのは、自由を実現するのは「コナトゥス」のような内的なベクトルであって、「意志」ではない、ということです。そもそもスピノザは、純粋な「自由意志」を認めません。どんな意志も、何らかの原因によって決定されていると考えるのです。たとえば目の前にカレーとラーメンがあって「ラーメンを食べよう」と決める。その決定は「意志」によって行われたように見えますが、実はこれまで自分が食べてきたものの歴史の積み重ねや、見た目からの連想など、自分の中にあるさまざまな要因の組み合わせに基づいて選んでいるにすぎないというのです。


他にも本書は、スピノザにおける「真理」や「神」の考え方について、たいへん明快に解説してくれており、タイトルどおり、まさにスピノザ入門に最適の一冊となっています。読みおえて、何だか『エチカ』が読めるような気がしてきましたが、あれってちょっと翻訳がとっつきづらいんですよね。光文社古典新訳文庫で出してくれないかなあ。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

【2788冊目】竹本健治『涙香迷宮』


※ややネタバレに近い記述があります。未読の方はご注意ください。




いろは歌、というのがありますね。いろはにほへと、ちりぬるを・・・・・・という、旧仮名遣いの48音すべてを一度だけ使った「歌」のことです。


本書はこの「いろは歌」が主役のひとつとなっています。それも、なんと48通りの「いろは歌」が次々に披露され、どれもが歌としてもおもしろく、その上、その中に暗号が仕込まれているのです。まあ、驚天動地というか、前人未到というか。その凝りようは、暗号ミステリの中でもトップクラスです。


そして、もうひとつの主役が黒岩涙香という人物です。明治時代に活躍し、「萬朝報」という当時もっとも売れた新聞を主宰する一方、『巌窟王』『臆無情』といった翻案小説の傑作を世に送り出しました。さらに五目並べを「連珠」として発展させたり、競技かるたの統一ルールを制定したりと、まさに異能の存在。その涙香がさまざまな仕掛けとともに遺した山荘が、本書の舞台となっています。


台風で閉ざされた山荘で起きた殺人事件と「いろは歌」をめぐる謎が絡み合う絶好のシチュエーションで、とにかく一気に読まされます。そして明かされる真相は、読んでいて『アマデウス』を思い出しました。天才モーツァルトを、その天才性ゆえに憎む凡人サリエリのゆがんだ切なさ。まあ、このあたりはネタバレになりそうなので、このへんにしておきましょう。


それにしても、最後のなぞなぞの答えって、なんなんでしょうね。みなさん、わかりましたか?


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


【2787冊目】フローベール『三つの物語』


フローベール晩年の短編3篇が収められています。フローベールは長編小説が有名ですが、短編も素晴らしいですね。


中でも「聖ジュリアン伝」はものすごい。実はこの作品はポプラ社の「百年文庫」にも収録されており、読むのは2度目なのですが、やはりこれは頭抜けた傑作だと感じます。人間のもつ善と悪の極限を描き切り、しかもその両者がみごとに統合されている。


思い出すのは、予言と宿命に翻弄されるという点ではギリシャ悲劇かシェイクスピアの四大悲劇(とくに『マクベス』)、善と悪の極北を同時に描くという点では、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』あたりでしょうか。意外なところでは、手塚治虫の『ブッダ』が、同じような試みに挑戦していますね。


「素朴なひと」は、無知で愚かな善とでもいうべき人間を描いた作品です。こちらはトルストイ、あるいはドストエフスキーでは『白痴』のムイシュキンに近いかも知れません。風景描写の美しさや人物描写の的確さは、こないだ読んだ『ボヴァリー夫人』を思い出します。


「ヘロディアス」は古代を舞台とした異色の小説で、もっとも「フローベールらしくない」作品といえるかもしれません。内容はワイルドの『サロメ』に重なりますが、もっと複雑に折り畳まれ、あえて言えばわかりにくい結構となっています。しかし、それがかえって際立った異様な読後感を残します。 


翻訳もたいへん読みやすく、巻末の解説も含め、充実した一冊となっています。フローベール入門にもオススメです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

【2786冊目】森田果『法学を学ぶのはなぜ?』


高校生向けの法学の模擬授業がもとになっているとのことですが、むちゃくちゃわかりやすいです。私が高校生の頃にこの本を読んだら、法学部に行っていたかもしれません。


いろんな事例を引きながら、法学のおもしろさを伝えているのがいいですね。気になったのは、イスラエルの保育園で実際に導入された「延長保育への罰金」の例。保育士さんたちが好意でやっていた延長保育を「罰金制」(有料化)したところ、かえって延長保育を利用する人が増えてしまった、というものです。好意でやってもらっていたことで遠慮していた親たちが「お金を払えば済む」ことで、かえって気軽に延長保育を申し込むようになったためでした。


これ、行動経済学の本でも見たことありますが、法制度の作り方にも活かせるのですね。個人的に思い出したのは、障害者雇用の法定雇用率を達成していない企業への「納付金」制度。これもまた「金さえ払えば障害者を雇わなければいい」という認識を、経営者に与えたりしてはいないでしょうか。余談ですが。


ユニークなのは「法を作る」という章。ここでは「テストに病欠した場合は追試を受けさせる」というルールについて、実際に考えさせるようになっています(実際の模擬授業では、グループワークでルール作りなどをさせたのでしょうか)。これもまた、最近大学入試で「コロナ感染者の受験拒否」が物議をかもしたことを考えると、非常にリアルかつ高校生にも身近なテーマだと思います。


こうした事例を通して、さまざまな角度から法について考える一冊なのですが、印象的だったのは、法学とは「ファースト・ベスト(最善の策)が実現できないときに、せめてなんとかセカンド・ベストを実現しようと努力してきた知恵を学ぶこと」であるというくだりでした。


なるほど、だから法学には「通説」や「少数説」や「判例」はあっても、自然科学のような「唯一の正解」がないのですね。でも、そのぶんだけ法学は、社会に出てはじめて魅力がわかる「オトナの学問」なのかもしれません。私が高校生の頃、法学にさほど魅力を感じなかったのも、無理のないことだったのかもしれませんね。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


【2785冊目】村瀬孝生『ぼけてもいいよ』


「第2宅老所よりあい」は、福岡市にある高齢者の生活の場のこと。本書は、この地域の中のごくふつうの民家に、通い、あるいは暮らすお年寄りとの日々を綴った一冊だ。


高邁な理想を唱えるのは簡単だ。でも、現実にシモの世話をし、同じ問いかけに何度も答え、「家に帰る」というお年寄りといっしょに何時間も歩くとなると、これはなかなかたいへんなのだ。本書には、そんな実践の日々から生まれた、地に足のついた言葉が散りばめられている。それは一見平凡だが、ときにドキッとするほど鋭く、こちらの思い込みをえぐってくる。


たとえば本書の冒頭では、北朝鮮の拉致被害の報道に重ねて、著者はこんなふうに書く。「老人福祉の現場も“拉致”と似たような状況を高齢者に作り出していると思える」「北朝鮮の拉致は人間の権利や尊厳を踏みにじる行為であって、われわれのおばあちゃんへの行為は権利や尊厳を守るためのものであった。本質的に違うことは間違いはない。けれど当事者からすれば、訳のわからぬうちに見知らぬ土地に連れてこられ『ここで暮らしなさい』と強要されるのだから理不尽であったに違いない」(p.10-11)


自分の属する業界や組織に対してこういうことを言う人は信用できると思う。読み進めていくと、やはりのこと、血の通った金言が次々に登場する。ここではそのいくつかを紹介するが、ほんとうはどの言葉も、「第2宅老所」での日々があってのものなのだ。気になる言葉があったら、ぜひ本書を読んでほしいと思う。


「僕たちは訓練やセラピーで相手を“変えること”ばかり考えてきた。“変えないこと”も大切であることを教えてもらった。ぼけのあるお年寄りにも、そのことが重要だと多くの人が気づき始めた」(p.61)


「最後に人は死ぬ。今まではそう思っていた。でもそうではなかった。人は最期まで生きるのだと思った」(p.119)


「問題が起きる前に介入する介護職の存在が、実はお年寄りを実感ある生活から遠ざけている」(p.223)


「男は女に比べて失うものが多い。背伸びして、意地を張って獲得したものは老いるともろくも崩れ去る。失うものが多ければ多いほど、苦痛も比例する。その苦痛と真摯に向き合ってきた漢は長生きをする。そして澄んだ瞳を手に入れる。それが立派なおじいちゃんの証」(p.286-287)


(「介護負担」という言葉に対して)「でも僕たちは思う。自然の摂理として訪れる老いに付き合うこと。それに付随する生活上の不都合に付き合うこと。生き尽くした最期に死があること。その死に付き合うということ。それは決して無駄なことではないと。確かに大変だけど負担と呼んでしまうのはいかがなものかと」(p.307)


あと、本書は写真がいい。何気ない日々の風景を撮っているだけなのだが、そこにいるお年寄りたちの表情が、なんとも味わい深いのだ。ぜひ、文章と一緒に味わってほしい。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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