自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2598冊目】庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』


1969年芥川賞受賞作。学園紛争とかゲバ棒とかマオジューシとかも出てきて時代を感じるが、しかしこの本の個性そのものは、少しも古臭くない。


全編が「ぼく」の一人語りで、そのため村上春樹に影響を与えたとかサリンジャーの影響を受けているとか言われるのだが、しかしこの一人語りが変わっているのは、ひたすら自分の思念や感情を追いかけ、誰かとしゃべっていても何かを見ていても、そこからどんどん「語り」がずれてくるところだ。


村上春樹のような、一人語りだけどどこか自分を突き放したようなスタンスとは違い、むしろ自分自身にべったりと絡め取られ、みずからその奥底に降りていくような。サリンジャーはどんな感じだったっけ。


もちろん、そうやってどんどん自分の中に降りていくと、いろんな意味でのダークサイドに堕ちていく危険もあるわけなのだが、そこで「ぼく」を救うのが、爪を剥がした足の指を踏みつけた女の子であり、タイトルにある「赤頭巾ちゃん」なのである。といってもなんのことやら、と思われるだろうが、「痛み」と「他者」が自己へのとらわれを解放してくれるというのは、なんとも意味深だ。

【2597冊目】千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』


絶版のため図書館で借りたが、これは面白い。どこかで復刊してはくれないか。


面白いが、痛い本でもある。とにかく「腹のかっさばき方」がいろいろ出てくる。一文字に十文字、途中でつっかえたらどうするか(いったん刀を抜いて反対側から突き入れるそうだ)、介錯のやり方など。


特に大事なポイントが「臓物を出すかどうか」。江戸時代の一般的な切腹の作法では、内臓を外にこぼれさせるのは「無念腹」といって、タブーとされてきた。だが歴史を辿ると、むしろ内臓をつかみ出して外にさらす方が一般的だったという。内臓を外に出すことで、身の潔白や赤心を証明する、という考え方があったからだ。


そもそも切腹のルーツはどこにあるのか。本書はその起源を、国内では平安時代、あるいは神話まで遡る。播磨国風土記切腹をするのは、なんと女神。夫への恨み怒りから自分で腹を裂き、入水自殺したのだという。ご丁寧にも、現場となった沼には「ハラサキ沼」という名前までついているそうだ。


さらに著者は、外国の切腹事例まで紹介する。多いのは中国で、しかも唐代にまでさかのぼる。興味深いのは、ここでも切腹の理由が「自分の真の心を見せるため」だということだ。中国で女性の切腹事例が多いのも意外。これも凌辱されたと思われた女性などが、身の潔白を明かすために行ったものだそうだ。


このくらいにしておくが、本書は、他にもさまざまな切腹エピソードが満載だ。自殺の方法としては決して合理的でもなく痛みも激しいこの行為が、「ハラキリ」として有名になるほど広まったのはなぜか。そのことが気になったことがある人なら、読んで損のない一冊だ。


ちなみに著者は柳田國男の弟子筋でもあるらしいが、歴史学民俗学か解剖学まで取り混ぜた本書の書き方もユニークである。わからないことはわからないと言い切る姿勢にも好感がもてた。


【2596冊目】穂村弘『はじめての短歌』


「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」


「空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋は散らかっている」


いきなり2つの短歌を並べましたが、最初のものが平岡あみさんという方(当時中学生だったとのこと)がつくったもの、後に書いた方はそれをもとにつくった「改悪例」です。


2013年の短歌入門講座がもとになっているこの本は、実際の短歌と並べて「改悪例」を載せているのです。ふつうは出来の悪い作品を挙げて「直し」をしてみせるのですが、逆なのです。「プレバト」とはだいぶ違いますね。


さて、冒頭の短歌で言えば「そういう状態」を「散らかっている」に直しているわけですが、世間一般の基準でいえば「散らかっている」のほうが良しとされることが多いと思います。「そういう状態」というだけじゃなんだかわかりませんからね。


でも、短歌ではこれが逆になる。たぶん詩や俳句でも同じでしょう。「そういう状態」と言われると、一瞬考える。想像する。その一瞬がコミュニケーションなのですね。本書では「0.5秒のコミュニケーション」と言っていますが、そういうこと。


いわゆる「ふつうの生活」と短歌では、価値が逆転するのです。どうでもいいこと、瑣末なことがもっとも大事なことであり、効率や合理化からこぼれ落ちたものに宝がある。ふつうの生活において価値があるもの、役に立つもの、それを著者は「生きのびる」と言いますが、生きのびるよりも「生きる」ことに属するのが短歌なのです。


「目薬は赤い目薬が効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす」(河野裕子


「目薬はVロートクールが効くと言ひ椅子より立ちて目薬をさす」(改悪例2)


「生きのびる」ためには「Vロートクール」でなければいけません。赤い目薬じゃなんだかわからない。でも短歌では、やはり「赤い目薬」なのですね。なんといっても記憶に残ります。そして、著者によれば「『生きる』ためにはOKなものをはかる尺度はシンプルなもので、それは忘れられないかどうか」(p.88)なのだそうです。そういうものがたくさんある人生こそが「生きている」人生なのですね。


しかし、私たちの生活のほとんどは「生きのびる」ことを中心に組み立てられてしまっています。なので「生きる」ためには、社会とのチューニングを、意図的にちょっとずらす必要があるのです。もちろんずらしっぱなしでは生きづらいことこの上ないでしょうが、たまにはやってみると、人生楽しくなりそうです。短歌とはそういう、生きることを再発見するためのメソッドにもなりうるわけですね。

【2595冊目】コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』


アメリ南北戦争の前、奴隷制が合法だった時代が舞台。主人公のコーラは3世代前からの奴隷で、ジョージアの農場で働かされているが、あまりに過酷な環境に耐えかね、「地下鉄道」の力を借りて脱走を試みる。


「地下鉄道」とは、歴史上は南部でひそかに奴隷の逃亡を助けていた人々のコードネームであるが、本書では実際に「地下のトンネルを通って奴隷を逃す鉄道」が描かれている。読んでいてすっかりそんなものがあると信じてしまったが、これはフィクション。本書は史実に忠実な作品ではなく、虚実が入り混じった作品なのである。


コーラの運命は逃亡後も過酷なものだ。一緒に逃亡した仲間は行方知れずとなり、屋根裏にコーラをかくまってくれた白人夫婦は縛り首になる。その後も黒人居留区にたどり着き、束の間の平穏な暮らしを手に入れるが、ここもまた白人自警団によって皆殺しにされてしまう。


これほど何度も希望を裏切られ続けると、私ならすっかり諦めてしまいそうだが、コーラは最後まで諦めず生き延びようとする。その奮闘ぶりには圧倒されるが、一方でアメリカ南部の黒人への仕打ちは、身の毛がよだつものばかり。


捕まった逃亡奴隷は生きたまま焼かれ、あるいは死ぬまで鞭打たれ、あるいは衆人環視のなか縛り首だ。その名も「自由の道」という道路沿いには、首を吊られた黒人の死体が延々とぶら下がっている。しかも、逃亡奴隷には懸賞金がかけられ、それを目当てに奴隷を追跡するプロがいる(コーラを探し、追い詰めるのもリッジウェイという追跡者だ)。


この南部アメリカの状況に似ているものを探すとしたら、後年のナチスが行ったユダヤ人狩りくらいだろう。そんな蛮行を平然と行うアメリカとはなんなのか。著者はこのように告発する。


アメリカこそが、もっともおおきな幻想である。白人種の者たちは信じているーこの土地を手に入れることが彼らの権利だと、心の底から信じているのだ。インディアンを殺すことが。戦争を起こすことが。その兄弟を奴隷とすることが。この国は存在するべきではなかった。もしこの世に正義というものがひとかけらなりともあるならば。なぜならこの国の土台は殺人、強奪、残虐さでできているから。それでもなお、われらはここにいる」(p.440)


昔の話だと思われるだろうか。そうではない。この本に書かれた話と、トランプ大統領(やっと「元大統領」になってくれそうだが)の登場と、BLACKLIVESMATTERの運動は、「同じ話」なのである。アメリカを読み解くには、その血みどろの負の歴史からはじめなければならないのだ。

【2594冊目】坂口恭平『徘徊タクシー』


認知症の人の「徘徊」というのは、本当に徘徊なんだろうか、そこには何か別の意味や目的地があるのではないか。だったら、そういうお年寄りを乗せて時空を超える「徘徊タクシー」をやろう、というのが表題作。急に思いついて盛り上がったり、介護施設の人にちょっと厳しく言われるとあっという間に落ち込んだり、というのがいかにも躁鬱の症状で、でもそこで試しにやってみると、思わぬ出会いや発見がある。


主人公は著者自身で、著者個人のことはあまり知らないが、たぶんかなり重なり合っているのだと思う。併録されている「蠅」は、なんだかカフカか阿部公房を思わせる奇妙なテイスト。「避難所」は娘ナオとのやりとりがいい。自分の子どもが小さかった頃を思い出して、ちょっと懐かしかった。