自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2593冊目】篠田節子『夏の災厄』



20年ほど前に読んだ本。なんとも懐かしいが、この本をこんなかたちで思い出すことになろうとは。


看護婦、保健婦という呼び方、厚生省という官庁名、今は新法に生まれ変わった伝染病予防法、MMRやインフルエンザと、ワクチンの副反応が問題視されていた世相など、20年もたつといろんなことが変わっている。


ところが、今起きている新型コロナをめぐる動向と、本書で描かれている新型日本脳炎をめぐるパニックは、気味が悪いほどよく似ているのである。


不確かな情報に振り回される現場、圧迫される医療現場、他人事のような国の対応、疲弊する地域経済、感染症をめぐる差別や排除。特に本書の終わり近くに書かれた次の文章は、まるで今の状況を見て書かれているかのようだ。


現代日本の防疫体制は、そんなに遅れたものではない。厚生省を頂点とした完璧なシステムも、大学病院や企業の研究所の研究者の能力も、薬剤や医療技術の質も、世界のトップレベルにあるはずだ。しかしなぜか、今、このとき機能しない。なぜなのか、だれにもわからない」(p.562)


今を予言する、パンデミック・サスペンスの傑作。自治体職員出身の著者ならではの現場感覚も見どころだ。今の状況を客観視するためにも、保健所や医療現場の感覚をリアルに知るためにも、今こそ一読を勧めたい。

【2592冊目】 アンソニー・ホロヴィッツ『メインテーマは殺人』


この本には驚いた。まるでアガサ・クリスティかエラリイ・クイーンの新刊を読んでいるみたい。しかも舞台はきっちり現代になっている。


著者自身がワトソン役で、元刑事のホーソーンが探偵役。手がかりはすべて描写され、何ひとつ隠されない。なのに、読み手は(少なくとも私は)みごとに騙される。


う〜ん。このフェアプレイ精神、この推理ゲーム感覚が「ツボ」のど真ん中を刺激する。これほどハイレベルの「騙される快感」が、リアルタイムの新刊で読めるなんて、こんな幸福があるだろうか。クリスティやドイルの同時代人は、いつもこういう幸福を味わっていたのだろうなあ。


とはいえ、内容は決して古臭くない。むしろ、自分の葬儀の手配をした老婦人が、その日のうちに殺されるという導入など、前代未聞といっていい。トリックも周到で、ひとつひとつはシンプルだが、それが複雑に絡み合っているので、ひとつが解けただけではかえってワケが分からなくなるようになっている。


人物造形も丁寧で奥行きがあり、しかも個性的(このあたりもクリスティっぽい。「ありがちな」人物を巧みに描くことに関しては、クリスティのうまさは飛び抜けている)。まあ、本格推理好き、ミステリ好きなら、読まない理由はない。かくいう私自身、今日まで「積読」していたことを後悔している。すぐに次の作品を読まなくっちゃ。

【2591冊目】 前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』


書店で表紙を見たときは、ちょっとヤバい人なんじゃないかと思ったけど、


読んでみたら、わりとまっとうな「バッタ研究記」でした。


ふざけて見えるけど、この著者はけっこうマジメで熱心な昆虫学者なのです(ポスドクで就職がかかっている、ということもあるでしょうが)


だいたい、バッタ研究の重要性といっても、日本にいるとあまりピンときませんが、


著者が研究するサバクトビバッタは、アフリカではたびたび大発生して農作物を食い尽くします。


数百億匹のバッタによって東京都と同じくらいの面積が覆い尽くされ、しかも一日100km以上を移動するというから、すさまじいものです。


著者は当初、実験室の中で飼育したバッタを相手に研究をしていたようですが、


一念発起してサバクトビバッタのいるアフリカのモーリタニアに飛び込みます。


本書はその、モーリタニアでの研究と生活の日々を綴った一冊。


とはいえ、年がら年中バッタが大発生するわけではなく、特に著者の行った時は記録的にバッタの大発生が少なかったようです。


そこで、方向転換してゴミムシダマシという別の昆虫の調査をしたり、


野生のハリネズミを飼ったり、


なぜかフランスにまで飛んで、尊敬してやまないファーブルが「昆虫記」を書いたという屋敷を訪れたりします。


しかし、いよいよモーリタニアでもバッタの大群が出現します。著者も現場に急行、緑色の全身タイツに身を包み、大群の前に身を投げ出して言うのです。


「さあ、むさぼり喰うがよい」


・・・や、やっぱりヤバい人かも。

【2590冊目】ジャン=フィリップ・トゥーサン『ためらい』


「ぼく」は、生後8ヶ月の赤ちゃんを連れて、海辺の村サスエロにやってきます。


そこに住むビアッジを訪ねようとしているらしいのですが、なかなか家のベルを鳴らさず、なんだかずっとためらっているのです。


その割に、ビアッジの家の郵便受けを勝手に開けて郵便物を抜き取ってみたり(その中には、「ぼく」が以前出した、訪問を告げる手紙も入っています)、留守の間に家に忍び込んだり、やたらに挙動があやしいのです。赤ちゃんをホテルにほったらかして、一人でふらふら行動しているのも気になります。


カフカベケットを思わせる「何も起きない小説」です。しかし、たとえばヨーゼフ・Kがなかなか城に辿り着けないのは、あくまで彼の「外側」にある不条理でした。本書では、不条理は「ぼく」の内心にあります。ビアッジの家の場所は分かっているのに、「ぼく」自身がなぜか行こうとしないのです。


海辺の村の不穏な描写が秀逸です。釣り糸をくわえて溺れ死んでいる猫の描写にはじまり、どんより曇った空や陰鬱な波の音までが、見え、聞こえてくるようです。


この作者の本は初めて読みましたが、明らかに確信して「こういう話」を書いていることが伝わってきます。じっさい、「訳者あとがき」によれば、著者は別の著作に関連して、こう言っているらしいのです。


「ぼくが書いたのは、何も扱っていない本です」

【2589冊目】マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』


「ぼく」は特別支援学校に通う15歳の少年だ。数学が得意で、今度数学の上級試験を受ける。だからこの本の章番号は全部素数になっている。


人の感情を読み取るのは苦手だ。人に触られるのも嫌いで、突然触られると殴ってしまうこともある。黄色いものと茶色のものが嫌いで、シャーロック・ホームズが好きだけど、『バスカヴィルの犬』で犬が撃ち殺されるところは好きではない。なぜなら犬はなにも悪くないのに殺されたから。


本書は稀有の小説だ。知能は高いがコミュニケーションに課題を抱える、一般には発達障害高機能自閉症と言われるであろう少年の一人語りで、その内面の世界を、この上なくみずみずしく描き出した。


そのうえ、本書はミステリでもあり、冒険譚でもある。「ぼく」は近所の犬を殺した犯人を探そうとする。父親の秘密に気付き、ある目的をもってひとりでロンドンに行く。騒がしくごちゃごちゃしたロンドンでの「ぼく」の探索行は、この本の白眉である。


誰にでも読んでほしいと思う本には、めったに出会えない。本書はそういう数少ない本のひとつ。愛しく、せつなく、そして心の底から勇気づけられる一冊。オススメです。