自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2546冊目】花輪莞爾『悪夢小劇場』

 

悪夢小劇場 (新潮文庫)

悪夢小劇場 (新潮文庫)

 

 

この作家のことは全然、名前すら知らなかった。じんわりと漂うブラックユーモア。現実と非現実のあわいに漂うシュールな感覚。あえて似ている作家を思いつくまま挙げれば、筒井康隆井上夢人、サキあたり? でも読んでいて最初に連想したのは『笑ウせえるすまん』なのだけど。

 

たとえば冒頭の「ちりぢごく」は、免許取り立ての女性がドライブ中に道に迷い、2日間にわたり家に帰れなくなるという話(ネタバレすると、結局車を乗り捨てて電車で帰るので、車での帰宅はできないまま終わる)。カーナビが普及した現代では、なかなか受け入れられない感覚かもしれないが、以前は地図片手に道を調べて運転していたので、特に道に慣れていない新米ドライバーの頃は、ちょっとしたことで道に迷うし、一度迷うとどんどんドツボにハマっていったものなのだ。

 

「銀輪の檻」も面白い。こちらは駅前の開発で宅地化が進んだものの、駅近くに住む女性の家のまわりが放置自転車で埋めつくされていくというもので、これも日常のちょっとした「あるある」がエスカレートしてとんでもない状況に至るというもの。「死者の鼾き」は飼い始めたブルドックのイビキに自身や死んだ父のイビキが重なっていくという奇妙な小説。「しあわせ家族」はショートミステリーの趣だが、これは裏表紙の解説がネタバレしてしまっているのが残念だ。

 

びっくりしたのはラストの「物いわぬ海」。これはなんと、かつて大船渡を襲った巨大津波の記録なのだ。そこに描かれているリアルな津波の描写に、東日本大震災で同じく東北を襲った津波の映像がフラッシュバックする。昭和の終わり頃、こんな作品をひっそりと書いていた作家がいたのである。

 

【2545冊目】中島梓『ガン病棟のピーターラビット』

 

ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)

ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)

  • 作者:中島 梓
  • 発売日: 2015/01/02
  • メディア: 文庫
 

 

 

この人は生涯に、ガン闘病記を3冊書いている。以前取り上げた『アマゾネスのように』、本書、そして最期の日々を綴った『転移』である。何度もガンになってしまう人は少なくないが、そのたびに闘病記を書き上げてしまうのはこの人くらいだろう。

 

前の『アマゾネスのように』では、乳ガンを経て通常の日々に戻る(もちろん完全に元通りとはいかないが)までのプロセスを綴っていたが、本書では、ガンの経験が著者の人生の転機になっている。ガン治療を経て、著者は「壮年」から「晩年」へ、たくさんのことをエネルギッシュに成し遂げてきた日々から、無理をせず、本当にやりたいことに向かって人生を絞り込んでいく時期を迎えたのだ。

 

「もう、ひとのおもわくなどかかわりはない、本当に大事なことだけを、やらなくてはならないことだけをまっしぐらに、残された限りある時間でやってゆかなくてはいけない」(p.137-138)

 

もちろん、ここでいう「本当に大事なこと」とは、著者にとっては「書くこと」だった。ライブも演劇も宴席もやめて、本当にすべての人生の時間を創作に捧げた。つねにその中核に『グイン・サーガ』があることは、かつての愛読者として感慨深い。本当に著者は、命を注ぐようにしてあの壮大な物語を生み出していたのである。

 

もうひとつ。ひょっこりと本書に登場する藤井宗哲という人が、とても印象に残った。著者が先ほど書いたような透徹した認識に至ったのも、ガン治療の日々に加えて、この人の影響が大きいようなのである。禅寺の和尚さんであって、精進料理を供する庵を鎌倉に結んでおられ、ある日ふいと亡くなられたとのこと。この人の「魂を満たす」という料理を、一度味わってみたかった。

 

 

アマゾネスのように (ポプラ文庫)

アマゾネスのように (ポプラ文庫)

  • 作者:中島 梓
  • 発売日: 2015/01/02
  • メディア: 文庫
 

 

 

転移

転移

  • 作者:中島 梓
  • 発売日: 2009/11/20
  • メディア: 単行本
 

 

 

グイン・サーガ1 豹頭の仮面

グイン・サーガ1 豹頭の仮面

 

 

 

鎌倉・不識庵 宗哲和尚の精進レシピ

鎌倉・不識庵 宗哲和尚の精進レシピ

 

 

 

【2544冊目】道尾秀介『向日葵の咲かない夏』

 

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

 

 

 

後から考えるとけっこう陰惨で救いのない話なのだが、その割に読後感は妙にさわやかだ。だがそのさわやかさは、どこか病んでいる。それがかえって、じんわりと怖い。ちなみに主人公のファーストネームであるミチオは著者の名字、なぜか唯一イニシャルで呼ばれ続けるS君のSは著者の名前Shusukeか。

 

叙述トリックはよくできている。冒頭の教室のシーンで机に何か描いているミチオが「ああ、トカゲか」と言われて激昂するところなど、読み返してはじめてその意味に気付いた。まあ、だから何なのかと言われればそれ以上の奥行きが特にあるわけではないのだが、そもそもそういう小説なのだから仕方がない。これはトリックアートのように「読んで騙される」ことを愉しむ本なのだし、それで十分なのである。

【2543冊目】伊藤亜紗『記憶する体』

記憶する体

記憶する体



たとえば、ある全盲の女性は話しながらメモをとる。別のやはり全盲の男性は、数字の0はピンク、1は白など、数字や文字から色彩を連想する。交通事故で左足の膝から下を失った男性は、「ない足をあるように使う」ことで幻肢痛を克服した。一方、先天的に左腕の肘から下がない男性にとっては、義手は「あると楽だけどなくてもかまわない」程度のものにすぎないという。


人間は誰でも、自分の身体に関する「記憶」をもっている。ところが、中途障害を負うと、現実の身体と記憶の中の身体にズレが生じる。過去の身体は常に、記憶の中から現在の身体に対して「それは違う」と呼びかけ続ける。


福音となりそうなのが、3Dプリンターのような技術革新だ。3Dプリンターは一人ずつのオーダーメイドで義手などを作れるため、記憶の中の身体との乖離が生じにくい。もっとも、そうした選択肢を選ぶかどうかはその人による。現実の身体に徐々に記憶を合わせようとする人もいれば、記憶の中の身体を生き続ける人もいる。どちらが正解ということはない。


一方、障害もまた時間が経つにつれて、身体の記憶を形成する。目が見えない、耳が聞こえない、吃音がある、手足の欠損がある、といった要素は、その人自身の一部として身体的アイデンティティをかたちづくるのである。


ある時、吃音当事者数名との話の中で「目の前に吃音を治せる薬があったら飲むか」と聞かれた場面では、全員がノーと言ったという。別の場面では、ある全盲の人が「視覚情報を触覚情報に置き換えて提供するサービス」を提案されて「いらないなあ」と即答したという。もちろん「治したい」と考える人もいるだろう。ここでもまた、正解は、ない。


身体の中の記憶がその人を形成し、現実の身体がさらにそこを裏切っていく。「記憶する身体」をめぐる一筋縄ではいかない現実を、具体的なインタビューを通じて描き出した一冊だ。



【2542冊目】サマセット・モーム『月と六ペンス』

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)


大傑作である。久しぶりに読み返したが、あらためてものすごい作品だと思う。人間の真実そのものが、この一冊にあますところなく描かれている。

ロンドンの平凡な株式仲買人ストリックランドは、突然仕事を辞め、妻子も放り出してパリに行ってしまう。画家になったと言うが、描いた絵はほとんど手放さず、生活は貧窮を極めている。「どうして自分に才能があると思ったんです?」という「わたし」の問いかけに、ストリックランドはこう答える。「描かなくてはいけないんだ」


単なる脱サラ中年の話ではない。「何かをやりたくて」仕事を辞めるなんて大したことじゃない。ストリックランドにとってむしろ、絵を描くことは苦行に見える。実際、ブリューゲル父について、彼はこう言うのである。「ブリューゲルはいい。この男にとって、描くことは地獄だっただろうな」(p.270)


ストリックランドはゴーギャンがモデルと言われる。そうなのかもしれないが、むしろモームは、画家として生きざるを得ないという意味で、本物の芸術家そのものを描いたように思われる。ゴーギャンもその一人、ストリックランドもその一人。そう考えた方がよい。そこにあるのは、天才というもののもつ本質的な孤独である。彼らは何かに突き動かされ、そのようにしか生きられないのだ。そんな彼を受け入れることができたのは、窮屈なヨーロッパの文明社会ではなく、南洋のタヒチだった。


この間読んだ『羊と鋼の森』が物足りなかった理由も、本書を読んで見えてきた。芸術や人間のもつ「影」の部分が、あの本にはまるで欠けている。周辺の人物にしても、たとえばストルーヴェのような存在感がまるで感じられず、薄っぺらな書き割りのようだ。モームと比べるのは酷というものかもしれないが、両者の違いは、作家という「芸術家」として到達している深みの違いに帰着するように思われる。作家の9割以上は、おそらく「書きたくて」書いている人である。だが、モームはおそらく、ストリックランドと同じ「書かなければならない」人、作家になりたくてなったのではなく、作家になるしかなかった人なのだ。