自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2541冊目】宮下奈都『羊と鋼の森』

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)


映画化もされたベストセラーなので、内容はご存知の方が多いだろう。見習い調律師の成長を描いた作品なのだが、さほど抵抗なくするする読める。主人公の外村が、いろいろ悩みや葛藤を抱えているのはわかるのだが、静かでおとなしい性格であるためか、内側で動くモノがあまり表出されないまま物語が流れていく。それが本書全体を流れる独特の「静かさ」になっている。その抵抗性の低さというか、葛藤のハードルの低さが現代に受け入れられ、外村くんを応援したくなる要因なのかもしれないが、一方でどこか物足りなさを感じてしまう。


ピアノという人工物を扱っている割に、自然になぞらえた音楽描写が多いのがおもしろい。個人的には、ピアノという楽器は他の楽器に比べても人工的でメカニカルなイメージが強いので、最初のうちは、読んでいてあまりしっくりこなかったのだが、考えてみれば、ヴァイオリニストにとっての左手にあたる、音程を調節しているのが調律師なのであって、それはつまり、調律師がピアノに自然の息吹を与えているということなのかもしれない。


【2540冊目】塩野七生『神の代理人』

神の代理人 (新潮文庫)

神の代理人 (新潮文庫)




「神の代理人」とは、カトリックの最高位、ローマ教皇のことである。ルネサンス期のローマ教皇のうち4人を描いた本書は、質量ともに単行本4冊分。後年の塩野七生なら内容をもっと膨らませて「ルネサンスローマ教皇シリーズ全4巻」くらいに仕立て上げたかもしれない。


中でも読み応えがあるのは、第2章と第3章。第2章では教皇アレッサンドロ6世と、フィレンツェで独自の神政を敷いたカリスマ的修道士サヴォナローラの対立が描かれる。記録や書簡の引用のみというスタイルが、かえって生々しくスリリングだ。どちらかというと、熱心なキリスト教サヴォナローラを、教皇が権力にまかせて弾圧しているように見える書きぶりだが、ラスト(ここだけは著者の地の文になっている)で一転、アレッサンドロ6世が異教徒に寛容で、政教分離を考えた教皇であったことが明かされ、自ら信じる道を説くカリスマ的なサヴォナローラこそが、実は狂信的で危険な存在であったことが分かる。歴史の真実は見方次第で大きく変わることが実感できる一章だ。


第3章は、教皇を主人公にしているとは思えないほどのすさまじい戦乱絵巻が描かれる。教皇ジュリオ2世とフランス王の確執を中心に、ドイツやスペインなどの強国や、イタリア内部で勢力をもっていたボローニャヴェネツィアなどが入り乱れての争いだ。ここでは教皇もまた独自の軍隊を持った一国の王であり、政治家であったことがわかる。


ちなみにここで招き入れたスペインが後にローマを破壊・略奪し、ルターの宗教革命とともにカトリックの時代に終止符を打つのであるが、それは後の話。当時は気鋭の歴史作家であった塩野七生の、知識と情熱がたっぷりと注ぎ込まれた一冊だ。



【2539冊目】尾川正二『原稿の書き方』


なんと1976年に刊行された「書き方指南」の本。古い。だいたい、いまどき原稿用紙にものを書く機会さえほとんどない。それでも、この本に書かれれている指摘の多くは、今も十分役に立つ。それは、本書が書くことの本質に根ざしつつ、内容はあくまで具体的で実践的なアドバイスに徹しているからだ。例文が豊富なのもありがたい。


「タテの生命意識の深さ、ヨコの社会意識の広さ、その交錯するところに、個人の位置がある。その世界と個人とを媒介するのが、ことばである」


「タテの世界であれ、ヨコの世界であれ、深く掘り起こしてゆけば、ことばを失う。沈黙するほかはなくなる。その本源の沈黙を突き破る言葉が、ほんとうのことばであろう」


いずれも「はじめに」からの引用である。前期ヴィトゲンシュタインを思わせる。こうした「言葉の持つ本質的な不可能性」に対する深くきびしい認識が、本書の根底にあるように思われる。


「すぐれた思想や感情が、直ちにすぐれた文章となるとはかぎらない。ことばを選びながら、その思想・感情を文章として表現することに成功したとき、すぐれた文章となりうるのである。あえて言うならば、文章がその人を超ええたときである。『文は人なり』とは、そういう苦しみを含めて言われたものであろう」(p.83-84)


このくだりもまた、著者の文章に対する姿勢をあらわしている。文章がその人を超えた時、はじめてその文章は文章たりうる。ブログやインスタでだらだら文章を綴っている私のような人間には、なんともおそろしい指摘である。


なんだか一挙に読む側のハードルを上げてしまったかもしれないが、実際に著者がこの本で書いていることの多くは、原稿用紙の使い方から適切なことばの選定、主語と述語の照応、語尾の選び方など、具体的で基本的、あえて言えば当たり前のことばかり。もっとも、実際に本書で引用されている例文を見ていると、このレベルですでにかなりあやしいものが多いので驚く。


だが、その段階にいつまでもとどまってはいられない。当たり前の文章が書ける段階のずっと向こう側に、とんでもない領域がひろがっている。そもそも、言葉は常に、言葉にならない膨大な領域をその裏側にもっている。その臨界点の崖っ淵を覗き込み、すれずれを一挙に駆け抜ける行為こそが、おそらく「書く」ということなのだ。そう考えると、「書く」とはなんとおそろしい行為であることか。そんなことまで考えさせられる一冊であった。


【2538冊目】福永武彦『幼年』

 

幼年 (河出文庫)

幼年 (河出文庫)

 

 

 

「幼年」「伝説」「邯鄲」「風雪」「あなたの最も好きな場所」「湖上」の6篇が収められている。

 

最初の「幼年」が変わっている。著者自身の幼年時代を綴ったものなのだが、段落の切れ方がヘンなのだ。文章の途中で段が変わり、しかもそこで主語が「私」だったのが「子供」に変わる。たとえばこんな感じだ。

 

「しかしその夢が果して面白かったかどうか、愉しかったかどうか、

 私は覚えているわけではない。どんな夢を

 子供が見るものか、見たものか。しかし確かに子供は彼の就眠儀式が終らないうちに、もう夢の中にいて、その中で笑ったり叫んだりしていたのだ」(p.11)

 

 

たまたま夢のくだりを引用したが、この「幼年」全体が、思えば夢まじりの思い出のようで、どこまでが現実なのかよくわからない。むしろ幼い頃に母親を失って以来、著者自身が、夢と現実のあわいに生きているかのように。

 

他の作品も奇妙な雰囲気があって、いずれも忘れ難い。「邯鄲」「風雪」などは男女の会話が中心で、ほとんど動きも見られない小説なのだが、それでいてどこか不穏な空気が漂う。平凡な風景や人物を描いていても、どこか不穏な雰囲気の絵が時々あるが、そんな絵を小説にしたらこうした短編になるのだろう。

 

福永武彦の名前は知っていたが、読むのは実は初めてだった。地味といえば地味だが、なんとも独特の味わいがある作家である。あくまで個人的な趣味だが、息子(池澤夏樹)や孫(池澤春菜)の作品よりも惹かれるものがある。

【本以外】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展に行ってきました

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美術館は久しぶり。展覧会が再開されていたのは知っていたが、なんとなく足が遠のいてしまっていた。習慣が途切れるとはおそろしい。

 

さて、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展である。展示数は61点と、イギリスを代表する美術館の大規模コレクション展としては決して多くない。ところが、ハンパじゃないのはその「質」である。はっきりいって、そのへんの展覧会3つ分くらいの「濃度」なのである。かの美術館が海外でコレクション展を行うのは初めてらしいが、気合いを感じさせる充実度だ。

 

とにかくどの作品も圧巻なのだが、あえて個人的ベスト10を選んでみた(順番は展示番号順)。とはいえ、絵画としての優劣というより、ここまでオールスター級が揃っていると、何を選ぶかは単に趣味や感覚の問題なので念のため。まあ、とにかく足を運んで、自身の目で堪能することだ。そして、図録がとてもしっかりしているので、できれば入手したい。これだけで並の画集5冊分の価値はあると思います。

 

1 カルロ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知』


 あまり調べずに行ったので、実はこの絵が展示されていることは知らなかった。一度は見たいと思っていた絵がいきなり目の前に現れたので「うわあ」と叫んでしまった。とにかく膨大な「意味」「寓意」が大きな画面いっぱいに詰まっているので、いくら見ていても飽きることがない。

 

2 ヨハネス・フェルメール『ヴァージナルの前に座る若い女性』


 こうして他の画家の中に並んでいると、フェルメールの異質さは際立っている。女性の顔や服に光が当たり、まるでそこだけが浮き出ているかのようだ。一度目が合うと離れられなくなる危険な絵。

 

3 エル・グレコ『神殿から商人を追い払うキリスト』


 エル・グレコも大好きな画家のひとり。聖書の有名な場面だが、中央に描かれたキリストの存在感と躍動感がものすごい。フェルメールとは別の意味での迫ってくるような存在感が圧倒的。

 

4 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『幼い洗礼者ヨハネと子羊』


 正直ムリーリョは名前くらいしか知らなかったのだが、この絵には打ちのめされた。ヨハネの表情は、いったいこれはなんなんだ。ものすごい作品、としか形容が思いつかない。怖い。

 

5 クロード・ロラン『海港』


 ターナーが好きなのでターナーを挙げようかと思ったが、同じようなシーンでも今回はロランのコチラの絵のほうが印象に残った。ターナーは神話を舞台にしたが、ロランは現実の風景を忠実に描き、その上で神々しさを感じさせる。

 

6 アリ・シェフェール『ロバート・ホロンド夫人』


 今回は肖像画も多かった。レンブラントの自画像、ゴヤの『ウェリントン公爵』もすばらしいが、あえてあまり人が集まっていなかったこの作品を推したい。ぱっと見ただけではそれほど印象に残らないが、見ているうちに気になってくる一枚だ。

 

7 ピエール・オーギュスト・ルノワール『劇場にて』


 このあたりからは文句のつけようのない王道ばかり。実はさっきの6番からラストの10番までは同じコーナー(しかも『ひまわり』以外は同じ部屋)なのだが、この部屋は凄かった。ルノワールは、実物を見るとやっぱり全然違う。この独特の空気感はなんなんだろう。

 

8 クロード・モネ『睡蓮の池』


 モネの絵は、なんというか他の絵と焦点の合わせ方が違う気がする。適度にピントをぼやかしたり絞り込んだりしているうちに、突然その凄みが飛び出してくる。どうしてこういう絵が描けるんだろう。

 

9 フィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』


 説明不要ですね。でもやっぱりゴッホは異常だ。個人的には糸杉や星夜のほうが好きだけど。

 

10 ポール・ゴーガン『花瓶の花』


 この人もまた、独自の「目」を持った人だと思う。最近『月と六ペンス』を読みなおしたので、余計にそのことを感じた。まさにゴーガンにしか描けない絵。