自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2508冊目】ジャン=ガブリエル・ガナシア『虚妄のAI神話 「シンギュラリティ」を葬り去る』

 

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シンギュラリティとは、AIが人類をしのぐ知能を獲得する「技術的特異点」のこと。だが、著者はそれを幻想にすぎないと断言する。そもそもAI(人工知能)とは、もともとは人間や動物のもっている知能をよく理解するための方法として、コンピュータ上で知能を模倣しようとするものだった。それがいつの間にか、機械の中に精神や意識を再構成するという話になっている。だが、著者によれば、それは「仮像」にすぎないという。仮像とは、外形が保たれたまま、中身はまったく違うモノになってしまっているような事物、あるいは現象のことだ。

 

わかったようなわからないような説明だが、さらに著者は、ここに「グノーシス」を重ね合わせるという知的アクロバットを披露する。著者の説明では、古代中東のグノーシス主義もまた、キリスト教ユダヤ教の外面を持ちながら、まったく違う中身を備えた仮像なのだという。

 

人工知能が人間の知能を超えて人間を支配するようなことは起こらず、シンギュラリティなど到来しない。その確信と、にもかかわらずシンギュラリティを煽るGAFAなどの巨大IT企業への怒りが、本書の中心に燃え盛っている。個人的には、そもそもシンギュラリティが到来しないのであればそんなに目くじら立てなくてもいいじゃないか、とも思ってしまうのだが、どうも著者はAIの脅威をやたらに触れ回ることが許せないらしい。

 

議論を理解する強力な補助線を引き、同時に議論から少し距離を置くためには、巻末にある西垣通氏の解説を先に読んだ方がいい。そこではAIをめぐる議論の背景にある一神教的な考え方が指摘され、グノーシス主義の説明も含めて、おそらく大方の日本人にとっては著者の文章よりはるかにわかりやすく論点が整理されている。

 

そもそもユダヤキリスト教的な考え方では、万物は造物主が創りたもうたものであり、人間も機械も神の被造物という意味では同列である。だから、機械のもつ知能が人間を超えることも当然ありうる、ということになるし、一方では人間がそのようなAIを作ることは、神の領域であり神を冒涜するもの、という考え方も生まれてくる。一方、万物に霊魂を認める日本的なアニミズムの中では、モノであるコンピュータやロボットに知性が宿り、人間を超えたとしても、西洋人が感じるような畏怖の念は生まれにくい(だから鉄腕アトムドラえもんのようなロボットが違和感なく受け止められる)。

 

こうなってくると、そもそも議論の背景が違うのでなかなか噛み合わない、ということにもなってくるのだが、まあ、個人的にはシンギュラリティより先に心配することがたくさんあるのでは、と思っている。昨今の新型コロナウイルスのような感染症もそうだし、災害や戦争のリスクもある。コンピュータの暴走にしても、知性がどうのこうのというより、人間がつくったシステムの不備で混乱が起きたり、ビッグデータが悪用されることのほうが恐ろしい。シンギュラリティが到来する前に、そもそも人間は滅亡しているんじゃなかろうか。

 

【2507冊目】藤井誠一郎『ごみ収集という仕事』

 

ごみ収集という仕事: 清掃車に乗って考えた地方自治
 

 

大学で教えるセンセーが、9カ月にわたりごみ収集の現場で働きつつ「参与観察」を行った。本書はそこから見えてきたごみ行政の現実をもとに、歴史をふり返り、未来を考察する一冊だ。

 

参与観察とは「調査者自身が調査対象である社会や集団に加わり、長期にわたって生活をともにしながら観察し、資料を収集する方法」(デジタル大辞泉)のこと。未開の民族の研究などでよく用いられるが、まさか自分にとって身近な、公務員の職場で行われるとは。

 

そこから見えてくる清掃作業の大変さと奥深さは予想以上だ。ただごみを積み込むだけの仕事ではない。不燃ごみや資源ごみ、事業系ごみが混ざっていないか確認し、シュレッダーごみは飛散しないよう袋に穴を空ける。汁が飛散しないよう注意し、ごみボックスを掃除し、時間内に作業を終えられるよう最適のルートを瞬時に判断し、住民からの質問に答え、最終的にごみ処理場への搬入を時間内に終える。リスクの多い仕事でもある。ガラス片や注射針が入っていたり、爆発の危険のあるライターやスプレー缶が混ざっていることもある。

 

クレームも多い。通行人、ごみの汁がかかってしまった家、回収漏れと称して出し遅れたごみを引き取らせようとする人、事業系ごみを有料シールを貼らずに出し、注意するとキレる人。反社勢力への対応もあるというから、クレーム対応については、ひょっとすると役所の中でもかなり大変な部類に入るかもしれない。

 

著者ははっきりと清掃職員に好意的、同情的だ。研究者がここまであからさまに肩入れするのは珍しい気もするが、まあわかりやすくてよろしい。そのぶん、ルールを守らない住人への視線は厳しく、最近進みつつある清掃事業の委託に対しては強く批判する。委託が進み過ぎると清掃の現場業務がブラックボックス化する、という危機感はとてもよくわかる。清掃業務だけでなく、いろんなところでこの「委託によるブラックボックス化」の弊害が生じている。

 

同じ役所の中でも、清掃業務の内実は案外知られていない。本書は新宿区という一自治体の例ではあるが、その実情を内部からリポートした貴重な一冊だ。今後もこういう本が増えてほしいものである。次は生活保護ケースワーカーか税の徴収現場、あるいは清掃以上に委託が進んでいるであろう図書館業務あたりに「参与観察」してくれないかなあ。

 

 

 

 

 

【2506冊目】宮尾登美子『寒椿』

 

寒椿 (新潮文庫)

寒椿 (新潮文庫)

 

 

生みの親に売られた先の芸妓子方屋「松崎」で、共に過ごした4人の女性の、行く末の物語を綴った短篇集。

 

4人の生涯は、一般的な意味では、決して幸福とはいえないだろう。男に囲われる生活だったが大怪我をして寝たきりになり、背中一面が床ずれで剥けてしまった澄子。頭が足りないとずっと罵られ、自分を売って酒代に替えてしまった父親への愛惜の情を思いきれず、お金を送り続ける民江。たいへんな美人ながら手癖や食い意地が悪く、それが祟って若死にした貞子。夫の実業の手伝いに身を削った妙子の「安楽さを願うより、より困難なものを乗り越してゆくほうに魅力を感じる」性分も、かえって苦労を増やしているようにも思われる。

 

こうした女性たちの身の上を、たいていの人は「哀れ」「かわいそう」と感じるのではないか。確かに、彼女らの人生のひとつひとつのエピソードは、大半が切なく、痛ましいものだ。だが一方で、ここには、安易に哀れみを覚えることをためらわせる何かがある。それは、この4人の女性がその中を生きたということそのものの重みであろう。言い換えれば、そこには4つの、いずれも類例のない「生きざま」があったのである。だいたい、切なくも痛ましくもない人生なんて、果たしてあるのだろうか。誰だって、切ない思いも辛い思いもしながらも、そこに自分なりの生きざまというものを体現していくのではないだろうか。

【2505冊目】マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』

 

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 お客様の中に、テレパシーを使える方、透視のできる方、未来を予知できる方、死者の言葉を聞くことができる方はいらっしゃいますか?

 

そう問われたら、あなたが一定の視覚障害をお持ちでない限り、この問いかけに手を挙げなければならない。なぜか。

 

まず「テレパシー」だが、これは「感情の読み取り」と言い換えられる。では、どうやってわれわれは他者の感情を読み取っているのか。表情? 声色? それもあるだろうが、本書で紹介されているのは、われわれがわずかな顔色の変化を読み取っている、というものだ。

 

それを支えているのが、肌の色の違いを高感度で読み取る「色覚」である。さらに言えば、われわれの色覚は「肌がよく見えるように」進化したのである。その一つの証拠が、女性の方が男性より色覚異常が少ないこと(男性は1割以上が色覚異常だが、女性は0.5パーセント未満)。その理由として著者が推測しているのが、赤ん坊の顔色の変化から体調変化を読み取る必要があったから、というものなのだ。一般にも女性のほうが人の気持ちを読み取るすべに長けているといわれるが、それも女性のほうが、敏感に顔色を読み取っているためなのかもしれない。

 

次の「透視」は、両眼視差。右目と左目でわずかに視野のズレがあるため、われわれは「見えない部分」を補い合うことで、フェンスや木立の向こう側を見通すことができる。ここでは錯視をめぐる議論が面白い。われわれの目は、決して世界をあるがままに見ていない。私たちは、自分にとって役に立つようにモノを見ているのである。コンピュータのデスクトップが「役に立つから」ああいう外見になっているのであって、内部を正確に表していないのと同じことだ(p.115参照)。これは錯視理解の基本であるが、著者はわれわれが平面図から勝手に奥行きを認識してしまう理由を、一般にいわれるような「立体視」ではなく、草の陰から向こう側を見るためであるとする。立体視はいわば、その機能に勝手に付随してきたものなのだ。

 

読んで驚いたのが、次の「未来予知」。ここでは、人間が光を受けてから視知覚に転換するまでのタイムラグが問題になる。その時間は約0.1秒。わずかなようだが、これは人が10センチ歩き、バスケットボールなら1メートル飛ぶ時間である。見えてから反応しては間に合わない。では、どうすればよいのか。

 

その遅れをリカバリーするために、なんと脳は見えているものの移動を少しだけ「先読み」していると著者は明らかにする。落ちてくるボールを見ているとする。われわれが「見ている」と思っているボールの位置は、実際の位置よりちょっとだけ下なのだ。だから、例えばボールの脇で不規則にライトを点滅させると、実際はボールの位置とライトの点灯は同じ位置になるはずなのに、われわれは「先読み」の分、ボールのほうが下にあると認識してしまうのである(ライトの不規則な点滅は予測できないから)。

 

「死者の言葉を聞く」は、本書では「霊読」と訳されているが、これは実は「文字を読む」というわれわれの能力のことだ。

 

もちろん、文字を読む能力は視力の一部である。だが、なぜわれわれは文字が読めるのか。言い換えれば、われわれが認識しやすいように、どういう文字が選ばれたか。著者はここで、文字はもともと自然界に存在する形象の一部であるという、驚くべき仮説を持ち出してくる。この仮説については、表意文字である漢字を知っている分、われわれのほうが理解しやすいかもしれない。だが、著者によると表音文字であるアルファベットも例外ではないという。それらもまた、自然界のデザインと対応しており、そのためヒトの目に止まりやすいのだ。

 

ここで著者は、世界中に存在するさまざまな文字を比較し、基本的なパターンをもとに分類してみせる。すでに失われた文字も含め、そこには驚くほどの類似性がある。著者はその理由を、自然界にあるさまざまな「かたち」と文字との類似性によって説明してみせる。分岐する枝、相互に接している岩など、自然界のデザインという共通の祖先から、世界中の文字は生み出されていたというのである。 

 

 

 

 

【2504冊目】ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

 

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たいへんよく売れている本。こういう本が売れていることに、今の日本へのかすかな希望を感じる。

 

ミドルクラスの通うカトリック系小学校から急転直下、格差と貧困の渦巻く「元底辺中学校」に通うことになった著者の息子さんが、本書の主人公。思春期の入口に差し掛かった子供のナイーヴな視点から描き出される、人種差別や格差社会、いじめやLGBTQ。机の上だけの話ではなく、リアルな現実として日々直面しているのは、「多様性」や「ダイバーシティ」そのものだ。

 

答えのない問いの中でもがき、悩み、大人には考え付かないような見事なやり方で切り抜けていく著者の息子さんには、ただただ感心するばかり。その姿を見守り、時に大人としてのアドバイスを与え、時に一緒になって悩む著者やその夫もすばらしい。

 

差別も格差も、もちろん日本にもたくさんある。ただ著者たちの暮らすところでは、それがきわめてわかりやすい形で現出しているだけなのだろう。徐々に日本でもその姿を露骨に表しつつある差別や格差に対抗し、キレイごとでないホンモノのダイバーシティを受け止めるにはどうすればよいか。多くの人がこの本を手に取ったのは、そんな切実な関心に「地べた」の視点から答えてくれるからなのだろう。ジョージ・フロイドさんの死をめぐるアメリカの大規模な抗議行動もまた、本書を読んだ後だと見え方がだいぶ変わってくるように思われる。