自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2503冊目】カート・ヴォネガット『スラップスティック』

 

スラップスティック

スラップスティック

 

 

Kindle版しか出てこないが、読んだのは文庫。古書店で購入した。

ヴォネガット。「自伝に近いもの」ということだが、書いているのは合衆国大統領。幼い頃は化け物のような形相で、姉のイライザと身体をくっつけると天才に。緑死病なる奇病で人々が死に絶えたマンハッタン。ミシガンでは国王が登場。家族は人工的に拡大し、重力にも異変が起きている。筋がどういうというより、発想の飛躍と飛翔を楽しむ小説か。個人的にはどこかカルヴィーノを思い出した。
ハイホー。

【2502冊目】網野善彦『日本中世の百姓と職能民』

 

日本中世の百姓と職能民 (平凡社ライブラリー)

日本中世の百姓と職能民 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:網野 善彦
  • 発売日: 2003/06/09
  • メディア: 文庫
 

 

 

第1部「百姓」、第2部「職能民」の2部構成。論文を集成した一冊とのことで、一般向けというにはやや詳細で専門的なものも含まれている。

 

まずは「百姓」だが、百姓という言葉自体、差別的ということなのか今ではあまり使われない。使われたとしても「農民」のことで、年貢を納める以外は自給自足の生活をしていたと考えられがちだ。だが、著者によると、13世紀前半までの百姓は、自ら産した米や絹、布などを商品としてマーケット(「市庭」)で売却し、得た貨幣で生活に必要な品を購入していたという。そして、市庭にさまざまな品物を供給していたのが、手工業者や商人、あるいは廻船人といった職能民だった。われわれが思っているより、当時の社会はずっと相互交流があり、活気があったようなのだ。

 

ということで、次は「職能民」。ここでいう職能民には鍛冶や鋳物師といった専門技能職から巫女や傀儡師、遊女までが含まれるが、いずれも中世の日本では「聖なる存在」としての側面をもっていたというのがポイント。当時の彼らは定住地をもたず、いわば共同体の外部から訪れる存在だった。彼らがやってくる山や海といった外界は、人間の力が及ばない「聖なる地」であり、ゆえにそこから来る人々も神聖視されたのだ。さらに、彼らのもつ職能もまた人間離れしたものだった。彼らのルーツは、古代、大陸からやってきて技術を提供した渡来人ともいわれる。渡来人という「まれびと」こそ、聖なる存在であり、同時にアウトサイダーであった職能民の元祖なのだろう。

 

本書はほかにも職能民を束ね、プロデュースした「勧進上人」の存在や、規範を外れて活躍した「悪党」「海賊」の出現など、気になることがたくさん書かれているが、また、そのうち。読むたびにいろんな発見がありそうな一冊だ。

【2501冊目】後藤好邦『自治体職員をどう生きるか』

 

自治体職員をどう生きるか

自治体職員をどう生きるか

 

 

検索してもKindle版しか出てこない。なぜだろう。

 

著者の名前は初めて知ったのだが、ギョーカイでは有名な方なのだろうか。山形市の職員であり、東北オフサイトミーティングの発起人とのこと。ちなみに私より2歳年上だ。

 

この「読書ノート」を始めた頃に、こういう「意識の高そうな」本はよく読んだ。最初こそ憧れ、目標にしようと意気込んだものだが、そのうちにワンパターンな展開と主張にヘキエキし、いつしか敬して遠ざけるようになっていた。

 

そういうわけで、この種の本を手に取るのは本当に久しぶりなのだが、さすがに当時に比べれば書かれている内容と多少は距離が取れるようになっているようで、そのぶんいろいろ収穫があった。さらに、本書は30代の自治体職員をメインターゲットにしているようだが、だからこそ、その時期を過ぎたからこそ見えてくるものがある。もちろん自分と考え方が違う部分も多々あるのだが、それも含めて刺激的な読書になった。

 

例えば、著者は「ワーク・ライフ・バランス」ではなく「ワーク・ライフ・コミュニティ・バランス」を提案する。今や「公」を担うのは「官」だけではない。公務員も、プライベートでも地域に飛び込んだり、他の自治体の職員と知り合うことで、地域の実情やニーズを知ることができる、と。

 

賛成だ。仕事中だけが公務員、というつもりでいては、今の時代に地域を担うには到底間に合わない。私の場合、住んでいる地域と勤め先の自治体が違うので、著者のいうようなプライベートでの地域活動はできていないかもしれないが、その分、住んでいる自治体のことを具体的に知ることで、勤め先の自治体と比較することができる。

 

最近で言えば、特別定額給付金の申請書ひとつとっても、どこの自治体でも大して変わらないように見えて、それぞれに記入ミスを防ぐための別の工夫が凝らしてあって興味深い。あるいは、わかりやすいところでは自治体の広報だ。同じテーマを取り上げていても、デザインから記事の作り方まで、見事なまでに違っている。子どもが地元の公立小学校に通っていた時は、学校の活動に関わることで、やはり自治体間の違いを感じることが多かった。こうした経験は、自分の勤める自治体を相対化するのにずいぶん役立っている。

 

あるいは、著者は同業の他自治体の職員と交流を深め、様々な成果を生み出しているが、私の場合は「ISIS編集学校」という場で、職業も年齢もバラバラの人たちと知り合うことができた。その中には大学教授もいれば美容師も、主婦もいれば学生もいた。そこでの相互の学びもまた、自分にとっては途方もない財産になっている。あるいは、資格取得のため通った専門校でできた、福祉を学ぶ仲間のグループもある(最近は途切れてしまっているが)。こちらも自治体職員は少数派で、ケアマネから障害者施設の職員、ひきこもり支援に精神病院のワーカーなど多士済々だ。

 

ただし、個人的には、「ワーク・ライフ・(コミュニティ)・バランス」というと、仕事と家庭、地域活動を切り離しているようで、これはちょっとつまらない。むしろ私たちは「24時間自治体職員」なのではないかと思うが、どうだろう。もちろんそれは、ずっと仕事をしているという意味ではない(リゲインのCMじゃあるまいし)。そうではなくて、医者が常に医者であり、大工が常に大工であるのと同様、仕事をしていなくても、私たちは自治体職員なのである。そして、同時に私たちは(私の場合)、仕事をしている間も父親であり、自治会の役員であり、アマチュアの音楽家であり、社会福祉士なのだ。われわれは誰でも、そうした多くの役割が同時多重に重なり合った存在なのである。そう簡単に切り分けられるものではない。むしろ「多重な自分」を意識することで、趣味の団体のマネジメント経験が仕事に活きたり、仕事上の学びが子育てに役立ったりするものなのではないか。

 

あるいは、著者は「前例主義」ではなく「善例主義」でなければならないという。他自治体や民間の好事例を知り、取り入れていくということだ。

 

これも賛成だ。ただし、2点補足しておきたい。1つは、「善例」は「他自治体や民間企業」にだけ転がっているわけではない、ということだ。例えば、歴史を学ぶことである。生命科学民俗学もおもしろい。そこにはとんでもない「善例」の原石が眠っているはずだ。哲学などは思考方法の宝庫である。このあたりは読書猿さんの『アイデア大全』『問題解決大全』がみごとに具現化してくださっている。

 

もうひとつは、注意点。「善例」に囚われすぎると、人はそのデメリットを過小評価しやすい傾向にある。これを回避するためには、取り入れる「善例」をできるだけ構造的に理解し、いわゆる「どこを押せば何が出てくるか」をしっかり捉えておく必要がある。高齢者や障害者にとってはどうか、などと考えてみるのもよい。そして、取り入れるにあたっては評価基準を決め、一定期間後に評価し、見直すこと。必要ならサンセット方式を導入することだ。

 

仕事に対するアプローチでは「私たち自治体職員は法律を守る番人ではなく、上手に活かす職人になることが求められる」(p.158という指摘に唸らされた。これは本当に大切なことだ。なぜなら「法律を守る」ことが目的化している職員が実に多いからだ。もちろん、法律を「破る」のは論外である。しかし、そもそも法律というのは、市民生活を成り立たせるための道具である。言い換えれば法律とは、そもそもその法律が制定された目的を実現するための手段なのだ。「政策法務」とは、まさにそういうことだったはずである。

 

他にもいろいろ書きたいことがあるのだが、まあ、このへんにしておこう。読んでみれば、職種、年齢を問わず、いろんなヒントが得られることと思う。総じて、意識は高くても、地に足がついているという印象が残る一冊だった。

【本以外】コロナ対策雑考メモ

早くもというか、ようやくというか、緊急事態宣言が全国で解除された。

 

日本のコロナ対策については、ずっといろいろ思うところがあったのだが、このタイミングでちょっと吐き出しておこうと思う。とはいっても、ロジカルな文章にまとめる気力がないので、徒然なるままにメモを垂れ流すだけだが・・・。

 

◆「自粛」について

そもそも自粛とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」(goo辞書)であって、自発性が前提の言葉。なので「自粛を要請」「自粛を求める」などという表現は、日本語として気持ち悪い。それは「他粛」である。

 

百歩譲って「要請に応じた自粛」は自発的なものだとしよう。だがそれは、例えばお店を開くとか、イベントを開催するとか、あるいは単に外出するという「権利」を、自ら制限していることになる。憲法上のタームを使えば「営業の自由」「移動の自由」などの自由権の行使を自発的に制限しているということだ。なおこれらの自由権は、憲法上、基本的人権の一部を構成するとされている。

 

欧米では強制的なロックダウンが必要だったが、日本人はみんなが自発的に「自粛」した、だから日本人はエライ、みたいなことを言う人がいる。だが、私はこれは逆だと思う。自由権とは、そもそも人間が簡単に手放してはならないものなのではないか。要請されたくらいで「自発的に」抑制してはならないのではないか。そんなに簡単に基本的人権をあきらめてしまえるような人は、たぶん人類が基本的人権を獲得するに至る血みどろの歴史を知らないのだろう。これは過去の話ではない。まさに昨今の香港では、国家安全法に反対するデモに数千人が参加、180人以上が逮捕されている。

 

基本的人権は侵害すべきではない、と言っているのではない。現憲法でも、「公共の福祉」を理由に人権には一定程度の制約がゆるされていると考えられている。おそらく感染症の拡大防止は、この「公共の福祉」として認められる可能性が高いだろう。

 

だが、そうであればこそ、国は「公共の福祉による基本的人権の一部制限」を堂々と行うべきだと思うのだ。そのための立法を行い、罰則を定め、法的な根拠をもって行うことは、時間的にも決して不可能ではなかったはずだ。そして、それが違法違憲だと考える人は、行政不服審査法に基づく不服申立てを行い、あるいは訴訟を提起すればよいのである。というか、そうすべきなのだ。立法府は必要と考える法律を作り、行政府はこれを執行する。もちろん、その内容が誤っている可能性もある。そこを担保するのが司法制度。三権分立とはそういうものではなかったか。

 

「自粛要請」の最大の問題点は、国が強制力を行使しないことで、国民が異議申し立てをする機会を奪っていることだ。なぜって、それは「自粛」だから。自発的にやっているだけだから。自分から権利を手放しておいて、それは違法だと訴えることはできない。実に巧妙だ。

 

そして、罰則の代わりに「自粛」を裏から支えているのが、日本人特有の同調圧力だ。同じ行動を皆に強いて、逸脱した奴は袋叩きにする。営業を続けたパチンコ屋がなぜあんなに叩かれたのか。彼らは「自粛」しなかったからだ。「自発的」に営業を止めなかったからだ。でも、これっておかしいと思わないか。国は「自発性」に任せて「要請」するにとどめているのだ。繰り返しになるが、本当に営業を止めさせたければ、そういう立法を行って、そういう行政処分を決定すればよい。それを行わないのは、よく言えば国の立法政策の問題、悪く言えば怠慢だ。

 

◆補償について

「補償」問題は、本質的には強制力の有無とは関係がない。憲法で補償に触れているのは27条3項だが、これは私有財産を「公共のために用ひる」際の規定であり、財産権制限そのものは、憲法上は補償とセットではない。むしろ補償については、次の2点から考えるべきだと思う。

 

第1は、感染防止策の実効性担保。これは強制力を伴うロックダウンでは問題にならないが、日本のような「自粛要請」には効果が大きい。つまり、単純に考えて、店を開けるのは売り上げが途絶えると困るからだ。店を閉じれば仕入れ代金はほぼかからないが、家賃はかかり続けるし、従業員の賃金も雇用形態によっては払わなければならない。そこを公的に手当てすることで「店を開け続ける」理由を潰し、「進んで閉店」しやすいようにする。これは言うまでもなく「防疫上の」理由による誘導だ。

 

第2は、国民の生活維持である。給料や家賃収入は、そのままその人の生活費に直結する。途絶えればおまんまの食い上げであり、憲法で言えば29条の生存権に関わる問題となる。これは防疫とは本質的には無関係であり、生活維持自体が目的となる。いわばこれそのものが、憲法によって政府に課せられた本質的なミッションである。

 

なお第2に関しては、10万円の特別定額給付金社会福祉協議会の生活福祉資金のような国民一人ひとりを対象としたものと、雇用調整助成金や緊急融資制度のように、事業主を通じて従業員に渡るものがある。だから、特に事業者を対象とした給付に関しては、この2つをしっかり区別して論じる必要がある。もうひとつ。企業会計上の観点で言えば、これは「キャッシュフロー」、つまりは金回りの問題だ。だから緊急性が高い。小口でもいいからスピード融資、スピード給付が必要である。

 

◆医療体制のこと

先ほど「ロックダウン」について書いたが、ひとつ書き漏らしていたことがある。とりわけ欧米諸国のロックダウンには、彼らの自然観が反映しているのではないか、ということだ。

 

どうも欧米諸国の人々は、自然を「コントロールする対象」とみているフシがある。その背景には理性中心、人間中心の世界観があると思われる。そのため感染症に対しても、外出を禁止することで接触機会を絶ち、終息を待つという人為的な手段で対応しようとしている。

 

一方の日本はどうかと言えば、これは世界に冠たる災害列島だ。地震に火山に台風と、年がら年中自然災害に見舞われている日本人は、欧米のような「自然を管理する」思想はあまりないように思われる。むしろある程度の被害は甘受しつつ、自然と共存し、災害を受容するところに、日本の災害対応の特性があるのである。日本の対応策が自粛要請という「ゆるい」ものだった背景には、こうした独特の「災害受容思想」のようなものがあったのではあるまいか。

 

だったら、先ほど書いたような人権上の問題はあるにせよ、「日本式」のシステムで首尾完結すれば、それはそれで一つの対応方法と言えるのかもしれない。だが、ここで問題がある。感染症対応の要となる医療システムは、西洋由来の、バリバリの西洋合理主義の産物なのだ。特に感染症対応のような高度医療はそうである。

 

ここにミスマッチが生じた。日本式の「ゆるい」社会システムと欧米式の「がっちりした」医療システムをつなげるのは、口径の合わない水道管をつなげるようなものだ。当然、水はじゃぶじゃぶ漏れる。それを何とかしようと奮闘し、パンクしてしまったのが保健所だ。保健所が担う「公衆衛生」とは、つまり医療と社会の「継ぎ目」にあたる。そこに負荷が集中した。PCR検査をめぐる右往左往もまた、このミスマッチに関係している。某ワイドショーが連日連呼していた「検査拡充」では、医療の厳格なシステムが維持できない。本来であれば検査と医療の間に何らかのクッションが必要なのだが、現在の感染症予防法ではそういうものは想定されていない。

 

結果だけ見れば、検査不十分の「ゆるい」状況を放置したことが、結果的に日本の社会システムに適合し、医療システムへの接続を行わなかったことで、その破綻を防いだともいえる。だが、今後感染が爆発的に拡がった場合、このやり方では陽性者の分離が不十分となり、患者の増加に歯止めがかからなくなるおそれもある。今回うまくいったのは幸運だったと考えるべきだろう。

 

いずれにせよ、これはシステムの不整合というかなり本質的な問題であって、保健所を強化すればよいというものでもないし、PCR検査を増やせばいいというものでもない。どちらかをもう一方に合わせることができないのなら、両方をつなげるジョイントを今のうちに作り、保健所機能にビルトインするか、新たな中間機関を作り上げるしかない。

 

◆ケガレと差別

最後に「ケガレ」と「差別」について。感染者や医療従事者への差別は日本に限ったことではないが、日本独特の要因として、この「ケガレ」の観念は想定しておいたほうがよい。ケガレについてここで細かく説明すると長大になるので省略するが、新型コロナの感染者は「ケガレ」た存在だと、私たちは無意識のうちに考えてはいないだろうか。その家族も同様。患者を治療する医療従事者もまた、患者に触れることで「ケガレ」が伝播する。そんなふうに感じてはいないだろうか。

 

そうした「ケガレ」感情に基づく差別は、今回が初めてではない。むしろ結核に精神病、ハンセン病HIV感染者と、この手の差別は日本中で昔から起こってきた。だから今回の報道をみていて「またか」とうんざりしたことが何度もあった。

 

一方でこの「ケガレ」観念が感染防止につながっていた可能性もあるから、コトは厄介だ。例えば「手洗い」は、単なる衛生管理というだけでなく、ケガレを取り去るための「ミソギ」に通じる。マスクもまた、感染を防ぐためのある種の「呪具」だったのかもしれない。

 

そもそも、マスクは「感染者の感染拡大防止」には役立つが「感染していない人がウイルスから身を守る」役には立たないとされている。だったら、日本人はみんな「自分が感染しているかもしれないから、人にうつさないように」マスクをしていたのか。もちろんそういう人もいるだろうが、むしろ私は、「マスクをしていると、なんとなく安全な/うつらない気がするから」着用していた人が大部分ではないかと疑っている。マスクは感染を防ぐための呪具として観念的に捉えられていたのではないか。呪具という言葉が大げさなら、「お守り」と言っても良い。あれは「ケガレ」を防ぐためのお守りだったのである。

 

この「ケガレ」にまつわる問題はきわめて根が深く、今すぐにどうこうなるような問題ではない。だが、少なくとも、私たちが新型コロナを「ケガレ」たものとして見ていることを自覚し、その延長上で患者や関係者をも見ていることに気付くことはできるかもしれない。

 

以上、殴り書きに近い内容になってしまったが、とりあえず現時点での私見ということで残しておきたい。備忘メモなので、詰めの甘さ、エビデンスの少なさ、説得力のなさは承知の上。

 

 

noteで新しい企画をはじめました

2500冊目という節目を迎えて、新たな企画をスタートしました。

noteのほうに、これまで読んだ本をベースに「おすすめブックリスト」を発表していきたいと思います。とりあえず4つアップしましたので、気になる方は覗いてみてください。そして、もっといい本、おススメ本があるよ!という方は、ぜひ紹介してくださいね。(リストは随時更新していく予定です) 

 

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