自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2476冊目】手塚治虫『鉄の旋律』

 

鉄の旋律―The best 3 stories by Osamu Tezuka (秋田文庫)

鉄の旋律―The best 3 stories by Osamu Tezuka (秋田文庫)

 

 

 

「黒手塚」全開の短編3本を収録した一冊。手塚治虫のダークサイド。

 

「鉄の旋律」は、冒頭こそゴッドファーザーの漫画版っぽい印象だが、超能力で義手を動かすというとんでもない発想の方に向かっていく。着想自体は荒唐無稽だが、自分の能力が自分でもコントロールできなくなるという恐怖は実は普遍的なテーマであって、それこそ核兵器などにも言えること。主の身体を離れてずるずる動き回る義手がなんとも不気味。

「悪魔の開幕」はある種のディストピアものだが、この状況は今から見てもリアリティがあって恐ろしい。びっくりしたのは「イエロー・ダスト」で、恐るべきは、このとんでもないラストをもった作品が1972年のヤングコミック誌に掲載されたということだ。たくさんの子供が血まみれで倒れているシーンは、トラウマものの衝撃度。手塚治虫の残酷さの極致を見た思いがする。

【2475冊目】福田ますみ『モンスターマザー』

 

モンスターマザー: ―長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い― (新潮文庫)
 

 

いやあ、怖い本だった。読んでいて思い出したのは『黒い家』だが、あちらは小説。本書はノンフィクションである。

いわゆるハードクレーマーに遭遇することは、私たちの職場であれば多かれ少なかれ避けられないが、本書に出てくる高山さおりほどの凄まじいクレーマーには、さすがにお目にかかったことがない。

長野県の丸子工業高校の1年生、高山裕太が自殺した。当初は所属していたバレー部のいじめが原因とされ、母親はいじめの事実を認めろ、謝罪しろと執拗に迫る。さらに、人権派として知られる某弁護士が、なんと校長を殺人罪刑事告訴するというとんでもない展開に。しかし、本当にとんでもないのはその後だ。学校からバレー部の保護者にまで及ぶ執拗なさおりのクレームに加え、一部マスコミの報道もあって追いつめられていく学校側。だが、真実を明らかにしようと反撃に転じるや否や、思いもかけない事実が次々と明らかになる。

加害者としてクレームや誹謗中傷に悩まされた学校やバレー部の保護者、生徒も、確かに被害者だった。だが、最大の被害者はまぎれもなく裕太君自身である。90分かけて学校に通いながら母親の代わりに家事を担い、父親に対する母親のDVを目の当たりにし、学校を攻撃するため母の意のままに手紙を書かされた。中でも「自殺」の真相が明らかになる瞬間は、あまりの残酷さと悲痛さに、読んでいて心が痛くなった。ここまで子どもの心を追い込むことが、果たして人に許されているのだろうか。

それにしても、高山さおりもとんでもないが、この母親一人ではこれほどのコトは起こせなかっただろう。その後押しをした弁護士の存在を、私たちは忘れてはならないと思う。その名前や、彼がどんなことをしたのか、どんな弁護士なのかを知りたい方は、ぜひ本書を読まれるとよい。

最後に、自治体職員のみなさん。まっとうに仕事をしているだけで、いつモンスタークレーマーやモンスター弁護士に個人が訴えられるかわからない世の中ですから、自治体職員向けの賠償責任保険には加入しておきましょうね。

 

黒い家 (角川ホラー文庫)

黒い家 (角川ホラー文庫)

 

 

【2474冊目】髙橋秀実『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』

 

「弱くても勝てます」: 開成高校野球部のセオリー (新潮文庫)

「弱くても勝てます」: 開成高校野球部のセオリー (新潮文庫)

  • 作者:高橋 秀実
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 文庫
 

 

 

驚くべき一冊。これは野球の革命だ。

練習は週1回。試合ではサインは出さない。エラーはあって当たり前。それより勢いとドサクサで大量得点し、コールド勝ちを狙うのが開成流だ。そしてなんと「反省はしない」。どうして? 

「反省してもしなくても、僕たちは下手だからエラーは出るんです」

 
そう。ここは天下の開成高校。頭が良く勉強はできるが、野球のレベルは決して高くない。だが、自分たちのヘタさを自覚し、そこから組み立てる独創的な戦術は、なんと東東京予選ベスト16という結果を導いた。とはいっても、小細工に走ったワケではない。開成高校を勝たせ続けたのは、野球の本質を深く考え抜いた結果生まれた、真に独創的なセオリーなのである。

【2473冊目】松本俊彦『薬物依存症』

 

薬物依存症 (ちくま新書)

薬物依存症 (ちくま新書)

 

 

「ダメ、ゼッタイ」を連呼する薬物教育。薬物所持で逮捕された芸能人を声高にバッシングするマスメディア。「薬物依存は犯罪だから、一度でも使ったら逮捕して刑務所に入れるべき」という「識者」の意見……。こうしたものに取り巻かれたわが国は、国民の「生涯の薬物経験率」がわずか2.4パーセントという際立った「低薬物依存国」である。そのこと自体は喜ぶべきであろうが、少数派となった薬物依存症者にとっては、過酷で生きづらい国となってしまっている。

確かに薬物の所持や使用は法律で禁じられている「違法行為」である。だが、だからといって、刑務所や病院に入れて社会から隔離することが効果的な対策となっているかといえば、決してそんなことはない。確かに薬物から隔離された環境で一定期間過ごせば、薬物は完全に身体から抜ける。だが、そうした人を一生閉じこめておくことは不可能だ。どんな薬物依存症者も、いずれは社会に戻ってくるのである。

だから大事なのは、薬物依存症者が社会の中で再使用に至らないようにするための仕組みなのだが、以前の日本ではこれが大変弱かった。刑務所や病院から出た後の覚せい剤依存者を調べたところ、通院治療を継続できているのは全体の3割程度。なんと7割が、初診から3か月以内に通院を中断していたのだ。3か月では、依存症治療には到底足りない。その先に待っているのは、言うまでもなく薬物の再使用であり、再度の逮捕や入院である。

では、通院治療をドロップアウトさせないためにはどうすればよいか。本書にはいろいろな対応策が挙げられているが、中でちょっと面白いのが、通院先で「クスリをやりたい」「やってしまった」「やめられない」と言えることが大事である、という指摘である。

これはアルコール治療にも言えることなのだが、一度の失敗も許さないような空気は、かえって依存症患者を治療から遠ざけるものなのだ。むしろ再発を前提としつつ、それでも通いつづけられる場こそが、真に治療効果を挙げることができるという。ただしこれは、医療側にとっては「違法行為を見逃せ」というに等しく、普通の医師にこれを期待するのは酷である。著者は、治療の場を患者にとって安心・安全な場所にすることは医師としての「職務上正当な理由」にあたり、刑事訴訟法239条2項の犯罪告発義務の例外となると説明しているのだが、はたしてこの言い分は通るのか。

それならむしろ、最初からそういうスタンスの治療プログラムを立ち上げればよい……として著者らが始めたのが「SMARPP(スマープ)」だ。その内容はぜひ本書や市販の「ワークブック」をご覧いただきたいが、特徴的なのはそのスタンス。(罰ではなく)報酬を与える、安全な場を提供する(先ほど書いたように、薬物使用を告白しても通報されたりしない)、積極的にコンタクトをとる(去ろうとするものを追いかける)、地域の様々な機関と連携する(自分たちだけで抱え込まない)というその考え方の前提には、薬物依存症への深い理解がある。

そもそも、なぜ人は薬物に依存するのか。いや、より正確に言えば、なぜ薬物を使用ても依存せずやめられる人と、抜け出せず依存症になってしまう人がいるのだろうか。

確かに薬物は、使用すると快感や興奮状態などの強い刺激や、逆にどろんとした感覚の鈍麻などを引き起こす。だが著者は、薬物はこうした「正の強化」だけでなく、「負の強化」をももたらすというのである。具体的には、それまでずっと続いてきた痛みや悩み、苦しみなどが一時的に消えるという体験を、薬物はもたらすのだ。そうなってくると、普段から強い痛みや苦しみにさらされている人にとっては、薬物は「生きるうえで必要不可欠なもの」となってしまうのである。著者はアメリカの精神科医エドワード・カンツィアンの「自己治療仮説」を踏まえ、次のように書いている。

「私たち援助者が薬物依存症者に問いかけなければならない質問は『その薬物はあなたにどんなダメージを与えたのか」だけでは不十分です。その質問に加えて『その薬物はあなたにどんな恩恵をもたらしてくれたのか」と問いかけることこそが重要なのです。そして、治療や援助とは、その『恩恵=心の松葉杖』の代わりになる、健康的で安全な『心の松葉杖』を探し出し、提供することに他なりません」(p.298-299)

この観点から見ていくと、少なくとも薬物を使った人を攻撃したり、排除したりする行為は、かえってその人を薬物の再使用に走らせることにしかならない、ということがよくわかるだろう。こうして見ていくと「ダメ、ゼッタイ」というフレーズがいかに無意味なものか、よくわかる。「ダメ、ゼッタイ」で薬物を止めるような人は、最初から手を出さない。問題は、手を出してしまった人を「ダメ、ゼッタイ」で追い込み、排除することで、かえってストレスを与え、薬物使用を促してしまっていることなのである。

【2472冊目】山田風太郎『あと千回の晩飯』

 

あと千回の晩飯 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)

あと千回の晩飯 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)

 

 

 

人を食った、という表現がぴったりのエッセイ集。残りの人生で食べられる晩飯はあと千回くらいか、というところから始まり、老境を迎えた心境を綴る。

なんて書くと、淡々とした随筆を想像するかもしれないが、そこは山田風太郎、老いてはいても枯れてはいない。むしろ老人ならではの言いたい放題、書きたい放題なのだが、言いたいことを言っていても威張っておらず、嫌味がないところに人間としての成熟を感じる。自分を絶対視して若者や世相をディスるのではなく、年老いた自分自身を客観視し、ユーモラスに描写しているのだ。さすがはガチの戦中派、中身カラッポでプライドばかり高い「あの世代」のジジババとは人間の出来が違う。

言いたい放題ということで言えば、初っ端に出てくる「老人の大氾濫予防法」がものすごい。なにしろ認知症になった高齢者(著者の言い方をそのまま使えば「ボケ老人」)を一堂に集め、ガスを満たして永遠の眠りについてもらう、というのである。アウシュヴィッツや『ロスト・ケア』と違うのは、これが「志願制」であるところ。65歳になった時に「将来ボケてクソジジイ、クソババアの徴候があらわれたら、この国家的葬送の儀に参加させてくれという登録をしておく」のだそうだ。

さすがの山田風太郎も、この提案は非難轟々かと覚悟していたらしい。ところが送られたきたのは、賛成を表明する手紙ばかり。それも65歳を過ぎた女性が多かったという。今ならどうだろうか。認知症になってまで生きるくらいなら・・・とひそかに思っている人は、男女問わず結構多いのではないだろうか。このあたりは『ロスト・ケア』を読んだ後だけに、いろいろと考えさせられるものがあった。