【2473冊目】松本俊彦『薬物依存症』
「ダメ、ゼッタイ」を連呼する薬物教育。薬物所持で逮捕された芸能人を声高にバッシングするマスメディア。「薬物依存は犯罪だから、一度でも使ったら逮捕して刑務所に入れるべき」という「識者」の意見……。こうしたものに取り巻かれたわが国は、国民の「生涯の薬物経験率」がわずか2.4パーセントという際立った「低薬物依存国」である。そのこと自体は喜ぶべきであろうが、少数派となった薬物依存症者にとっては、過酷で生きづらい国となってしまっている。
確かに薬物の所持や使用は法律で禁じられている「違法行為」である。だが、だからといって、刑務所や病院に入れて社会から隔離することが効果的な対策となっているかといえば、決してそんなことはない。確かに薬物から隔離された環境で一定期間過ごせば、薬物は完全に身体から抜ける。だが、そうした人を一生閉じこめておくことは不可能だ。どんな薬物依存症者も、いずれは社会に戻ってくるのである。
だから大事なのは、薬物依存症者が社会の中で再使用に至らないようにするための仕組みなのだが、以前の日本ではこれが大変弱かった。刑務所や病院から出た後の覚せい剤依存者を調べたところ、通院治療を継続できているのは全体の3割程度。なんと7割が、初診から3か月以内に通院を中断していたのだ。3か月では、依存症治療には到底足りない。その先に待っているのは、言うまでもなく薬物の再使用であり、再度の逮捕や入院である。
では、通院治療をドロップアウトさせないためにはどうすればよいか。本書にはいろいろな対応策が挙げられているが、中でちょっと面白いのが、通院先で「クスリをやりたい」「やってしまった」「やめられない」と言えることが大事である、という指摘である。
これはアルコール治療にも言えることなのだが、一度の失敗も許さないような空気は、かえって依存症患者を治療から遠ざけるものなのだ。むしろ再発を前提としつつ、それでも通いつづけられる場こそが、真に治療効果を挙げることができるという。ただしこれは、医療側にとっては「違法行為を見逃せ」というに等しく、普通の医師にこれを期待するのは酷である。著者は、治療の場を患者にとって安心・安全な場所にすることは医師としての「職務上正当な理由」にあたり、刑事訴訟法239条2項の犯罪告発義務の例外となると説明しているのだが、はたしてこの言い分は通るのか。
それならむしろ、最初からそういうスタンスの治療プログラムを立ち上げればよい……として著者らが始めたのが「SMARPP(スマープ)」だ。その内容はぜひ本書や市販の「ワークブック」をご覧いただきたいが、特徴的なのはそのスタンス。(罰ではなく)報酬を与える、安全な場を提供する(先ほど書いたように、薬物使用を告白しても通報されたりしない)、積極的にコンタクトをとる(去ろうとするものを追いかける)、地域の様々な機関と連携する(自分たちだけで抱え込まない)というその考え方の前提には、薬物依存症への深い理解がある。
そもそも、なぜ人は薬物に依存するのか。いや、より正確に言えば、なぜ薬物を使用ても依存せずやめられる人と、抜け出せず依存症になってしまう人がいるのだろうか。
確かに薬物は、使用すると快感や興奮状態などの強い刺激や、逆にどろんとした感覚の鈍麻などを引き起こす。だが著者は、薬物はこうした「正の強化」だけでなく、「負の強化」をももたらすというのである。具体的には、それまでずっと続いてきた痛みや悩み、苦しみなどが一時的に消えるという体験を、薬物はもたらすのだ。そうなってくると、普段から強い痛みや苦しみにさらされている人にとっては、薬物は「生きるうえで必要不可欠なもの」となってしまうのである。著者はアメリカの精神科医エドワード・カンツィアンの「自己治療仮説」を踏まえ、次のように書いている。
「私たち援助者が薬物依存症者に問いかけなければならない質問は『その薬物はあなたにどんなダメージを与えたのか」だけでは不十分です。その質問に加えて『その薬物はあなたにどんな恩恵をもたらしてくれたのか」と問いかけることこそが重要なのです。そして、治療や援助とは、その『恩恵=心の松葉杖』の代わりになる、健康的で安全な『心の松葉杖』を探し出し、提供することに他なりません」(p.298-299)
この観点から見ていくと、少なくとも薬物を使った人を攻撃したり、排除したりする行為は、かえってその人を薬物の再使用に走らせることにしかならない、ということがよくわかるだろう。こうして見ていくと「ダメ、ゼッタイ」というフレーズがいかに無意味なものか、よくわかる。「ダメ、ゼッタイ」で薬物を止めるような人は、最初から手を出さない。問題は、手を出してしまった人を「ダメ、ゼッタイ」で追い込み、排除することで、かえってストレスを与え、薬物使用を促してしまっていることなのである。