自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2275冊目】ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』

 

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光文社古典新訳文庫GJ。よくぞ新訳に踏み切ってくれた。嬉しい。

いや、格調高い齋藤磯雄訳がダメというのではない。ただ、あの格調高いオールド・スタイルとヴィリエ・ド・リラダンの世界観は、あまりにも合いすぎていた。ただ、やはり今のご時世、あの翻訳ではハードルが高すぎる。結果として、一部の愛好家以外には手に取りづらいものになってしまっていた。

それではいけない。この『未来のイヴ』は、ロボットや人工知能が話題になっている現代こそ広く読まれるべき古典なのだから、これはやはり、新訳という選択肢を増やすべきだったのだ。やってくれるのは光文社さんだと思っていたら、見事期待に応えてくれた。感謝!

というわけで本書『未来のイヴ』であるが、改めて読み直して思ったのは、これはやはり相当な「奇書」だということだ。だいたい主人公が発明王エジソンであり、特に前半から中盤にかけてのほとんどが、エジソンの「語り」で埋め尽くされているのである。それはまさに怒涛の機械人間論、今風に言えばロボット論、アンドロイド論なのだ。問題の機械人間が登場するのは、本編768ページ(長い!)のうち640ページ以上が過ぎてからなのである。

筋書きも、今思えばとんでもなく退廃的で差別的なものだ。なにしろ、外見は絶世の美女だが中身は世俗的で凡庸な女性アリシアに幻滅した貴族エウォルド卿のために、エジソンが「外見はアリシア、中身は気高い女性」のアンドロイドを、人工肉と機械仕掛けをもって作り出そうというものなのだから。しかしこれが、形を変えて後世のSFに多大な影響を与えてきたことは否定できない。匹敵するのは、かの『フランケンシュタイン』くらいであろう。

まあ、それはそれとして、やはり本書の眼目はエジソンを中心とした、人工生命、人為的な「理想の人間の製造」をめぐる圧倒的な思弁と語りそのものなのだ。その内容は機械人間の歩行や平衡機能の詳細から自然と人工の差異、人間の「高貴さ」と「俗物性」をめぐる議論など多様をきわめ、その中でありとあらゆる思考実験が重ねられるのである。現在のロボットやAIをめぐる議論の多くは、ここに原型が示されているといっても過言ではない。本書はストーリーを読む小説ではなく、思考と議論の道筋そのものを読む小説なのだ。

 

 

【2274冊目】大高保二郎『ベラスケス』

 

ベラスケス 宮廷のなかの革命者 (岩波新書)

ベラスケス 宮廷のなかの革命者 (岩波新書)

 

 

王室画家としてフェリペ4世に仕えつつ、数々の傑作をものしたベラスケスの生涯と作品をコンパクトにまとめた一冊だ。

芸術家というと破天荒なアウトサイダーが多いように思えるが、ベラスケスは生涯にわたって王室に仕え、絵を描くだけでなく芸術品の収集などにもあたっていた。一見、堅実かつ順風満帆の人生のように見えるが、著者はそこに、ひとつの仮説を導入してみせる。

ベラスケスの生涯に倣ったわけではないにせよ、本書自体も基本的には堅実で着実な内容なのだが、そこだけは著者があえて踏み込んだ。それが何だったのか気になる方は、どうぞ本書を最後のほうまでしっかり読まれたい。それはベラスケスの生涯に関わる秘密であると同時に、ベラスケスの作画に関わる秘密でもあるのである。

さて、ベラスケスと言えば肖像画である。とはいえ、その迫力とリアリティはとんでもないもので、私も実際に見て感じたのだが、目の前にそういう人物がいるかのような錯覚さえ呼び起こす。その人がどんな振る舞いをし、どんな声でしゃべるかということまでが、絵を見ていると感じられるのだ。著者はそれを「存在そのものを描けた画家」と表現する。

ベラスケスの描く人物は、その人物自身がもつ魅力で「魅せる」のだ。王や教皇という肩書ではなく。そういう人物に肖像画を描かせるなんてよほど自分に自信があるのだろうが、そうやって描かれた人物像は、時代を超えて「今でもこういう人っている」と思わせる存在感がある。市井の人物を描いても同じような存在感を持たせるのだ。障害者(矮人)を描いても、障害を隠しも強調もせず、その人そのものをそこに現前化してみせる。まるで魔術のような画力である。

画題は平凡、だがその絵は非凡。そんな特徴をなんと小津安二郎の映画と重ねて、著者は言う。「小津映画のテーマの普遍性は、ベラスケス絵画の、平凡な日常に潜む非凡なる尊厳に相通じるものがあるのではなかろうか」(p.266)。奇行をもって非凡とみられる程度では大したことはない。平凡でありながら非凡であること。それこそが本当の非凡なのである。

 

【2273冊目】サイ・モンゴメリー『愛しのオクトパス』

 

愛しのオクトパス――海の賢者が誘う意識と生命の神秘の世界

愛しのオクトパス――海の賢者が誘う意識と生命の神秘の世界

 

 

「タコ? タコってモンスターなんでしょう?」著者はタコについて話をしたとき、友人にこう言われたそうだ。タコがモンスターとはピンとこないが、西洋ではタコは悪魔の化身として描かれることも多いという。だが本書を読めば、タコの魅力に誰もが夢中になり、モンスターだなんて到底思えなくなるだろう(そして水族館に行きたくなる!)

本書は、ナチュラリストである著者と水族館のタコたちの交流の記録である。タコは5億年ほど前に人類との共通の祖先から分化し、独自の進化プロセスを辿ってきたという。どうやらその結果として、タコは人間とはまったく違った形の知能を発達させ、意識をはぐくんできたようなのだ。

そうでなければ、本書に出てくるタコたちの行動は説明がつかないものばっかりだ。相手の腕を(吸盤で)触ることで人の見分けをつけ、気に入らない相手や遊びたい相手だと水を吹きかける。好奇心のカタマリで、わずかな隙間から外に忍び出し、階段を降りて海に向かう。数カ月前に「触った」だけの相手を覚えていることもあるらしい。

そして、本書の最大の読みどころは、なんといってもタコと著者や水族館スタッフの交流の豊かさだ。アテナ、カーリー、カルマ、オクタヴィア。タコたちはみんな個性的で、頭が良く、人懐っこくてチャーミングなのだ。特に、死期を迎えつつあるオクタヴィアとの別れのシーンは感動的で、思わず相手がタコだということを忘れそうになる。

イヌやネコ、チンパンジー等が相手の交流の記録は多いが、タコが相手というのは前代未聞ではないかと思う。だが、何度も言うが、この本を読めばタコに会いたくなることは保証する。できれば飼いたいくらいなのだが、タコを飼うのはけっこう大変らしいので(それでも世の中にはタコを飼っている人がわんさかいるらしい)
、水族館に走る準備をしてから読まれるとよい。

ちなみに本書に出てくるニューイングランド水族館とそのスタッフたちは、素晴らしい。飼っている動物たちへの愛情とリスペクト、観客を楽しませようとするプロのスピリットをあわせもっている。ぜひ(タコに会うついでに)この水族館にも遊びに行ってみたいものだ。

【2272冊目】ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』

 

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

 

 

『その女アレックス』がバカ売れしたルメートルの、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズ第1作。時系列からいっても前日譚にあたるが、邦訳が先に出てしまった『アレックス』にも本書の内容が触れられている。

これに加えて、邦訳は反則級のネタバレタイトルなので、なんとなく先読みができてしまうのだが、実はその先にあるとんでもない叙述トリックこそが、本書の最大のサプライズであって、二度読みしたくなるポイントなのだ。

だから本書の紹介はたいへん難しく、すでにだいぶネタバレしてしまっているのだが、これ以上のネタバレはさすがに避けたい。まあ、ある種の虚実皮膜というか、信頼性のおけない語り手というか、そういうことになってくるので、読んでいると足元が突き崩される気分になってくる。

ちなみにこの本、後味はきわめてよろしくない。『アレックス』の陰惨な真相も救いがたいし、この読書ノートで以前取り上げた『天国でまた会おう』の結末の暗さも戦争モノの必然であったと思うのだが、本書のラストはそういう意味での必然もなく、ただただ救いがない。まあ、これがフランス・ミステリのリアリズムなのかもしれないが、それにしても読み終わってどんよりした気分のままというのは、なんとも嫌なものである。

最後に、本書の文庫版解説は杉江松恋氏なのだが、これが見事なので推しておきたい。本書のトリックには一切触れずに魅力だけを名外科医のように摘出し、しかも本編を読み終わってから読むと、実は本書のメイントリックについてもしっかり触れていたことに気づくという、二重底の名解説なのである。

 

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

 

 

【2271冊目】森田真生『数学する身体』

 

数学する身体 (新潮文庫)

数学する身体 (新潮文庫)

 

 

名著である。本書にも再三登場する岡潔や、あるいは寺田寅彦中谷宇吉郎らの著書を思わせる。数学について語っているのに情緒があり、風流があり、俳諧がある。著者が1985年生まれというのがちょっとびっくりするほどに、ふくらみと奥行きのある本だ。

数学と言えば頭の中、あるいは紙とペン、もしくは今で言えばコンピュータでやるものと思っていた。確かに、私たちは子どものころ、ノートと鉛筆で計算をやっていた。だが、そのうち簡単な暗算は頭の中でできるようになる。それまでは紙に書くという「行為」だったものが、そこで「思考」に置き換わる。だが実際には、「行為」と「思考」とは、そんなに明確に分けられるものなのか。

数学は思考するものであって、同時に行為するものなのだ、と著者は言う。行為という以上、そこには身体の存在が欠かせない。思考自体であっても、身体の影響を大きく受ける。本書で大きく取り上げられている岡潔の例をひきつつ、著者は次のように書く。

「記号的な計算は、数学的思考を支える最も主要な手段の一つであることは間違いないが、数学的思考の大部分はむしろ、非記号的な、身体のレベルで行われているのではないか。だとすれば、その身体化された思考過程そのものの精度を上げる―岡の言葉を借りるなら「境地」を進める―ことが、ぜひとも必要ということになる」(p.162-163)

 俳句でも同じようなことがあるらしい。芭蕉の句が他の俳人と大きく違うのは、「生きた自然の一片がそのままとらえられている」ところであると著者は指摘する。頭で考えていては間に合わない。瞬時に対象を捉え、五・七・五に置き換えるには、身体的な「境地」そのものを高める必要がある。数学もまた同じなのである。

そうなると、邪魔になってくるのが「自分」という意識、自己意識なのだ。「自分が」考える、「自分が」理解する、というフレームを外さないと、本当の理解には到達しない。

「「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある」(p.139)

 

 

「わかる」とは、単に頭で理解することではない。自分がその相手になりきること、同一化することだ。岡潔の説明を借りるなら、他人の悲しみがわかるとは、自分自身もその悲しみになりきることなのである。もちろん「数学」についても、同じこと。著者はこう書くのである。

「数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ」(p.174)