自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2270冊目】アーネ・リンドクウィスト&ヤン・ウェステル『あなた自身の社会』

 

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

 

 

実際にスウェーデンで使われている中学の教科書を読んでびっくりした訳者の川上さんが、自ら翻訳して配付したという一冊。「私たちは、このような教科書をかつて持ったことがありません」(「訳者まえがき」より)という訳者のことばに、本書のすべては言い表されている。

本書を読んだ感想は、なんとも言葉にしがたいものがある。う~ん、やっぱり、あまりにも違い過ぎるのだ。それは、中学生に対する信頼感の違いなのか、あるいは求めるものの高さの違いなのか。いずれにせよ言えることは、この本は大人たちが「本気で」中学生に向けて作った教科書だ、ということだ。

本気ということは、伝えるべきことから逃げていない、ということである。例えば、犯罪と刑罰について。例えば、麻薬について。例えば、同性愛について。例えば、障害者について。例えば、クレジットカードや消費者教育について。例えば……

どれも日本だったら(という言い方は好きじゃないが、本書に関してはこう言うしかない)、教科書に正面切って載るようなテーマとは思えない。執筆者か、教科書会社か、文部科学省か、どこかで絶対ブレーキがかかるだろう。しかも、書かれているのは紋切り型の「正解」ではない。さまざまな事例や意見を並べて、読み手(つまり中学生)に考えさせようとしているのだ。

「警察が他の職業と比べて批判を受けやすいのはどうしてでしょう」

 

「男子と女子の間で、こんなにも所得に差があるのはどうしてでしょう」 

 

「私たちが性的病気にかかる危険は、どんなところにあると思いますか」

 

「最も一般的な麻薬は何ですか。それぞれの違いは何でしょう」

 

「現金がないときに、物を購入するためのお金をつくるにはどんな方法がありますか(後略)」

 

「今、麻薬常習の女性が子どもを産んだとします。子どもを母親から取り上げることについて、どんな意見があり得るでしょう。友達の意見と比較しましょう」

 

医療保険には、どんな内容が含まれていますか。どんな規則があり、保障金額はいくらかを調べましょう」

 

「学校での障害者環境はどうでしょう。また、地域ではどうでしょう。どうしたら良くなると思いますか」

 

 

エトセトラ、エトセトラ。挙げているとキリがないのだが、大事なのは、では、どうしてこういう教科書が必要なのか、ということだろう。

こんなことは中学生にはまだ早い、社会に出てからで十分だ、と日本では言われるかもしれない。でも、学校を出た後で、誰がこういうことを教えてくれるというのだろうか? 読んでいて思ったのは、スウェーデンでは、社会の中に放り込まれる前に、社会のことをちゃんと知ること(知識という武器や防具を身につけること)を、本気で中学生に対してさせようとしている、ということだ。

それは、子どもがどうこうというより、大人たち自身が、自分たちの責任をきっちりと果たそうとしている、ということでもある。セックスや犯罪や麻薬について中学生に教えることに躊躇してしまうのは、日本でもスウェーデンでも同じだろう。だが、そこをあえて踏み込むのは、やはりそれが、大人が次世代の若者たちに対して負っている責務であるから、なのではないか。

 

だから、日本でも、せめて中学生のうちに(つまり義務教育のうちに)、最低限、次のことは伝え、自分で考えて議論できるような教育課程をつくるべきだと思うのである。少年法と刑法について。セックスと性感染症について。医療保険について。年金について。ハローワークについて。労働基本法について。生活保護について。契約について。お金の貸し借りについて。連帯保証人について。麻薬と覚せい剤について。外国人との共存、外国人差別について。LGBTについて。障害者について。ネット・リテラシーについて。選挙と地方自治について……

 

【2269冊目】バリー・ハナ『地獄のコウモリ軍団』

 

地獄のコウモリ軍団 (新潮クレスト・ブックス)

地獄のコウモリ軍団 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

B級感あふれるタイトルに、しりあがり寿画伯によるぶっとんだ表紙。読む前から否応なくテンションも期待値も上がる。これはガルシア=マルケスばりのマジックリアリズムか、あるいは筒井康隆的なスラップスティックか、またはウラジーミル・ソローキンのごとき悪夢の短篇集?

結論からいうと、どれでもない。というか、そこまで破壊的な作品ではない。何というか、もう少しじわりと、深いところからえぐってくる感じ。巻末の訳者あとがきで書かれているとおりの、アメリカ南部ならではの想像力の産物なのだ。バーボンとタバコの、絶望と退廃の。その中にあってもたくましく生きる人々の。

「もう自由の国などうんざりなのであります。独立戦争の英雄ネイサン・ヘイルも、パトリック・ヘンリーも、大馬鹿者ですぞ。もちろん、きゃつらは面白い存在であったことでありましょう。彼らには物語があったのですからな。しかし、これだけは自信を持って申し上げますが、我々にそんな物語など、ない。我々は自由すぎるのであります。自由に怯えてしかるべきなのであります。すべて善き人々というものは、自由に怯えるべきである―そうではないでありましょうか?」(p.270-271 「この御目出度き種族」より)

この感覚、この絶望感なのだ。物語がなく、自由だけがあることの。そして、それはひょっとすると、アメリカ南部にかぎった話ではないのかもしれない。例えばわが日本だって、どうだろうか? 今の日本に「物語」はあるだろうか。我々がもっているのは、空虚な「自由」ばかりなのではなかろうか?

 

 

【2268冊目】中尾真理『ホームズと推理小説の時代』

 

ホームズと推理小説の時代 (ちくま学芸文庫)

ホームズと推理小説の時代 (ちくま学芸文庫)

 

 

ホームズ派かルパン派かと言われれば、私は完全にホームズ派だった。御多分にもれずポプラ社江戸川乱歩から入り、中学生のころどっぷりとシャーロック・ホームズにハマった。もっとも、その後はエラリー・クイーンアガサ・クリスティなどを読むようになり、すっかりホームズからは遠ざかっていた(BBCドラマの現代版ホームズ『シャーロック』が久々の再会だった)。

そんな私にとって、本書はひたすら懐かしい一冊だった。ワトソン博士との名コンビ。鳥打帽にパイプ、拡大鏡といったトレードマーク。アイリーン・アドラー、モリアーティ教授といった魅力的な敵役の存在。「ベイカー街221B」という表示を見るだけで、背筋がゾクゾクする。

本書はホームズを軸に置きつつ、その後の推理小説の展開を描き出す意欲的な一冊だ。ちなみに著者の専門は英文学だが、メインはジェーン・オースティンなどの「正統派」。本書を刊行したのは、大学から引退したのを機に「長年、趣味でこっそり読んでいた読書を公開」しようと思ったからだという。なるほど、確かに本書は、アカデミックな硬さがなく、趣味的な遊び心があふれている。

「ホームズ後」の推理小説の展開も面白い。ドイルの後継者と言われても、私程度では、クリスティやクイーン、あるいはチェスタトンヴァン・ダインくらいしか思いつかないが、本書ではベントリー、セイヤーズ、ガードナー、スタウトといった名前がずらりと並ぶ。中でびっくりしたのは、あの「くまのプーさん」のA・A・ミルンが『赤い館の秘密』という古典的な推理小説を書いていたということ(タイトルだけ見れば綾辻行人かよ、という感じだが)。しかもこの小説、横溝正史の『八つ墓村』に影響を与え、江戸川乱歩も「ミステリー・ベスト・テン」の一冊に挙げているほどの名作であるらしい。

ちなみに、日本のミステリ小説界は、綾辻行人法月綸太郎有栖川有栖あたりを極点とする「本格推理派」がやたらに多かった。これはドイルやチェスタトンらが日本に紹介された後、ベントリーやクロフツらをすっ飛ばしてなぜかヴァン・ダインのようなガチな本格推理派が入ってきたことが影響しているらしい。ちなみに日本ミステリのもう一つの流れは、松本清張から高村薫宮部みゆきに連なる社会派ミステリであるが、こちらはどういうルーツがあるのだろうか。

とにかく推理小説は面白い。予備知識はなくとも、ただひたすらに読んでいるだけで幸せなのだが、本書のようなウンチクを愉しむことも、また読書の悦楽のひとつであろう。ちなみに著者は「推理小説というのは精神の遊びであるから、よほど暇で心がくつろいでいないと読めないものである」(p.327-8)と書いている。推理小説がどんどん書かれ、また読まれる社会というものは、それなりに平和で良い社会なのかもしれない。

 

 

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

赤い館の秘密 (創元推理文庫 (116-1))

赤い館の秘密 (創元推理文庫 (116-1))

 

 

【2267冊目】芦原伸『へるん先生の汽車旅行』

 

へるん先生の汽車旅行 小泉八雲と不思議の国・日本 (集英社文庫)
 

 

へるん先生とは、小泉八雲こと、かのラフカディオ・ハーン。その通った道を同じように体験しつつ、その生涯に思いをはせる一冊だ。

ハーンは生涯の旅人であった。本書に取り上げられているだけでも、ニューヨークからシンシナティ、そこからカナダ西端のヴァンクーヴァーへ。日本では松江での日々が有名だが、実際には熊本、神戸、そして東京へと渡り歩いていた。ちなみに、一番長く滞在していたのは、実は東京だったという。

そして、旅、特に鉄路の旅と言えば、実は本書の著者はうってつけである。なんといってもこの著者、雑誌「鉄道ジャーナル」にも在籍していたことのある、筋金入りの鉄道旅のプロなのだ。そのため鉄道の描写がやたらに詳しいのはご愛敬。

ちなみに、著者の祖父、蘆原甫(あしはらはじめ)はハーンと同じ1850年生まれ、西南戦争では乃木希典のもとで参戦し、熊本城で薩摩軍と戦っているのだ。ハーンも熊本に滞在していたことがある。著者は祖父とハーンの違いにも目を留めつつ、どこか「もうひとりの祖父」をハーンに観ていたのかもしれない。

本書を読むと、ラフカディオ・ハーンが当時日本に来ていた外国人の中ではきわめて異例の存在であったことがよくわかる。そもそもハーンはフェノロサやコンドルのような「お雇い外国人」ではなく、メディアの世界で食い詰めて記事を書くために日本にわたってきたのであった。

例外的なのはそれだけではない。当時、日本にやってきた多くの西洋人が日本の文化や風習を遅れたものとして侮蔑し、どこに行っても自国の流儀を押し通そうとする中で、ハーンはむしろ日本に愛着を感じ、招かれた先では、泊るところも食べるものも日本のものを要求した。他の外国人は、日本人と結婚しても、帰国命令があれば妻子を置いて本国に帰ってしまったが、ハーンは自分が日本に帰化してしまった。その背景にあるのは、自分を見捨てたアングロ・サクソン人の父に対する怒りや憎悪であり、生まれ故郷のギリシアにかつて息づいていた多神教の歴史であったのかもしれない。

もっとも、ハーンが予言していたように、日本の西洋化は後戻りのできないところまで進んでしまった。その言ってみれば成れの果てが、著者が辿った21世紀の鉄道ルートなのである。本書は、ハーンの見た明治の美しい日本と、徹底的に西洋化された現代の日本を重ね合わせる、いささか意地の悪い一冊ともいえるかもしれない。

【2266冊目】イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

 

まっぷたつの子爵 (岩波文庫)

まっぷたつの子爵 (岩波文庫)

 

 

トルコ軍との戦いに臨んだ叔父のメダルド子爵は、大砲の直撃をくらってまっぷたつになってしまった。そして故郷に帰ってきたのは、なんとメダルドの右半分だけ。だがこの「右半分」ときたら、とんでもなく悪い奴だったのだ……

人間の善悪が、2つの別々の人格となるような物語はいくつかある。有名なのは『ジキルとハイド』だが、これはひとりの人間の人格が時間によって入れ替わる話。ところが本書のメダルド子爵ときたら、身体そのものが縦半分に両断され、右半分が悪なるメダルド、左半分が善なるメダルドになってしまったのだ。こんな奇想天外、聞いたことがない。

さらに、である。普通の子供むけメルヘンであれば、単に「悪い子爵」がダメで、「善い子爵」ならOK、ということになるのだろうが、これは大人のためのアイロニック・メルヘンなのだから、そんな単純な話にはならない。確かに、やたらに人を処刑する「悪半分」も問題だ。しかし「善半分」のほうもまた、自分の正義を押し付け、人の心までも変えようとするのだ。だから、最初はその善人ぶりを称賛してきた連中も、途中からは困り果ててしまうのである。

悪だけでもダメかもしれないが、善だけなら良い、というワケではないのである。やはり人間は、どちらか半分だけではダメなのだ。そのことがすとんと腑に落ちる、大人のための寓話。