hachiroetoの読書ノート

この世の片隅でこっそり書き続けています。一応自治体職員。仕事は福祉系。読書は雑食系。

【2664冊目】野矢茂樹『語りえぬものを語る』


「語りえぬものを語る」。ずいぶん奇妙なタイトルです。だいたい「語りえない」=「語ることができない」ものを「語る」とは何事でしょうか。タイトル自体が矛盾しています。不可能です。しかし本書は、その不可能性の「キワ」のようなところをすり抜けていこうとします。それも「ことば」によって。


ヴィトゲンシュタインをご存知の方なら、このタイトルに、『論理哲学論考』のラストを思い浮かべることでしょう。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名なフレーズです。著者はこの、『論理哲学論考』のラストを出発点に、本当に「語りえぬもの」は「語れない」のか、考えていきます。


本書は決してやさしい本ではありません。もっとも、著者の書き振りは、この手の本としては例外的なくらい、分かりやすく、しかも楽しい文章になっています。にもかかわらず、本書は難しい。それは、私たちが当たり前だと考えている、いわば思考の前提となっている部分を、著者は揺さぶり、ひっくり返そうとするからなのです。


例えば、うちにいる(と仮定する)猫のタマを考えてみましょう。タマは「猫」です。同時に、隣のミケも、裏のクロも「猫」と呼ばれます。難しく言えば、猫という「概念」があり、その概念がかたちづくる「分類」があって、その中に三毛猫のミケも黒猫のクロも我が家の雑種のタマも含まれる。そうした「猫」という概念に属するものとして、われわれはタマを見るわけです。これを著者は「相貌」と呼びます。


さて、ここからです。私たちは、目の前にいるタマを「猫」として見ることができます。では、別の世界に住む人たちがいて、彼らは「猫と掃除機」をひとつのグループで捉え、それを「クリーニャー」という名前で呼んでいたらどうでしょうか。その時の「見え方」を、私たちは想像できるでしょうか。たぶん、無理だと思います。理屈では、そういう分類がありうることは理解できるでしょうが、その「光景」をイメージすることは不可能です。


つまり、概念が変わると、世の中の「見え方」が変わるのです。なぜなら、私たちは概念、つまり言葉で世界を分節し、囲い込んでいるからです。さらに言えば、そうした「言葉によって語られうる世界」は、広大な「非言語の、分節されていない世界」に囲まれています。「語りえぬものを語る」とは、そんな広大な「非言語の海」に私たちがどう対峙していくか、ということなのです。


本書が提供しているさまざまな思考実験は、いわゆる「頭の体操」とか「脳トレ」みたいなものとは違う、もっと根源的なところから私たちの認識を揺さぶるものです。しかし、そうした思考訓練の中で、おぼろげに見えてくる、今まで見たこともない光景があります。それこそが著者が提供する「哲学的風景」なのでしょう。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!