自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2455冊目】川崎昌平『書くための勇気』

 

書くための勇気: 「見方」が変わる文章術

書くための勇気: 「見方」が変わる文章術

 

 

ささやかな個人ブログながら、長きにわたり「書く」ことを続けてきた私としては、今までやってきたことへのお墨付きをいただいたという思いが6割、自分の不足を突きつけられたという思いが4割、といったところ。特に、なんといっても「批評的視点をもつ」ことの重要性については、まさにこの読書ノートがずっと続けてきたことであり、それゆえにもっとも不足を気付かされた点であった。

著者によれば、批評とは「価値を伝える行為」であるという。もっと具体的に言えば「私が」「私の外部にある事物の価値を」「読者に向けて」伝えることだ。この、カギカッコでくくったそれぞれが、実は本書のエッセンスになっている。その意味するところはぜひ本書を直接あたっていただきたいが、ポイントは「自分のこと、自分の中にある価値を書くのではない」こと、にもかかわらずそれを書くのが「自分である」ということ。この関係性をしっかり見つめることが、良い文章を書くための出発点になる。

ちなみに、私が本書でもっとも勇気づけられたのは「こうした多様性の時代にあっては、「価値を伝える文章」がなければ、ある対象の価値はユーザーに見過ごされたまま埋もれてしまう危険性もある」(p.31)というくだり。そうなのだ。本にしても、毎日膨大な新刊が刊行される今の状況こそ、ある本の価値を伝える場が必要なのである。その役割の一端をこの「読書ノート」がわずかにせよ担うことができているとすれば、続けている甲斐があるというものだ。

というわけで、大枠の方向性とか意義については僭越ながら背中を押してもらった気分なのだが、これが書くための考え方、心構え、技術となってくると、こちらは読むほどにグサグサと心に刺さることばかり。その例をいくつか、コメントつきで以下に挙げてみたい。

「「わかりやすくない状況」にこそ、書くための材料が隠されているのです」(p.61)

 

→一見「わかりやすい」と思える状況は、実は紋切り型の思い込みだったりするもの。安易な「わかりやすさ」に逃げ込むと、本当の価値や論点を見落とすことになる。

「不特定多数の存在を主語にして、あたかも主張が多数の人間の支持を得ているかのようなごまかしをせず、きっちりと人間一個の論として文章にする」(p.123)

→これ、よくやってしまう。「われわれ」とか「私たち」という主語を使い出すと、だいたいロクな文章にならない。先ほど書いたように、伝えるのはあくまで「私」なのだ。

「理解に抵抗がないものばかりを読み解こうとしてしまう姿勢は、他ならぬ読み手自身の成長を損なうと私は真剣に感じています」(p.157)

→これもまた「わかりやすさ」への警鐘だ。私もよく「わかりやすい」という誉め言葉を使ってしまうが、わかりやすいばっかりじゃダメなのである。

「批評性を帯びた文章を書いた結果、読者からの批評もまた得られなければならない。そして読者からの批評が多角的な視点に満ちていたほうが――他ならぬ筆者にとっての発見が増えるようになります」(p.161)

→少し後ではこれを「問題の単純化を避け、それこそ書き手自身の思考態度すら明瞭にせず、悩み、苦しみ、迷い、苦しみ、ぜいぜいひいひい考えながら、ややもすると読みにくい、わかりにくい、疑問や反論が湧き上がってしまうような、少し以上に混濁した文章」とも書いているが、こうした文章こそ他者の批評にひらかれたもので、結果として著者自身の成長につながると著者は言う。ツッコミどころを残しておく、とでも言い換えられようか。文章とはボケツッコミのボケであるべきなのだろう。

「一方的な「私」の視座のみに固執し、反対あるいは敵対する「彼」の視点を想像しない文章は、文章そのものに優れたフィードバックをもたらしません」(p.208)

→これも文章の批評性、意思疎通性に関する指摘。とはいえ書くのは「私」なのだから、必要なのは「私」自身を多様化し、他者をその裡に宿らせること、ということになるだろうか。

「「つまらない」と書かない」「「おもしろい」と書かない」(p.209,p.212)

 

→文章のタイトルだが、これは私の文章の一番安易でダメなところ。はい、自覚しております。そうなのだ。これを書いちゃ「おしまい」なのだ。

というわけで、文章の本質から技術までがひとつながりとなった、読むたびに何らかのヒントが得られそうな、永久保存版の「文章教室」であった。書くことに踏み切れない人から書くことがマンネリ化した人まで、幅広くおススメしたい。ああ、おもしろかった(←あっ)。