【2448冊目】若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』
いまどき「本を読めない」ことを気に病む人がどれくらいいるのか、考えてみると心もとない限りだが、それはそれとして、本書は「本が読めなくなった」という悩みへの回答の形で、まことに著者らしい読書論を展開する一冊だ。
著者らしい、というのはどういうことかというと、内省的で、目に見えないものをたいせつにし、ゆっくり生きる、といった体のもの。そこに松浦弥太郎ふうのうさん臭さを感じる人もいるかもしれないが、いやいや、本書に書かれていることはそのような、単純なスローライフふう哲学ではない。
そもそも現代は、「じっくりと本に向き合う」ことが実に難しい時代である。インターネットから流れる膨大で断片的な情報にさらされ、書籍にしても、到底読み切れない量の本が毎日のように刊行される。ところが読書という行為は、こうした情報の奔流にさらされることとはある意味対極にある。それは周囲と「つながる」のではなく「ひとりになる」「自分と向き合う」ことを求めるからである。読書とは「外」に何かを発見するのではなく、むしろ本というメディアを通して、自分自身の中に何かを見いだす作業なのだ。
「出会うべくして出会った本が教えてくれるのは、『ほんとうに必要なものは、すでに私たちのなかにあって、私たちはそれを見過ごしているだけだ』という現実なのです」(p.26-27)
そういう読み方に必要なのは、速さに囚われず、本全体にさえ囚われず、たった一つの言葉を見つけるつもりで読むこと。美術館に行ってたった一枚の絵だけを見て帰ってきた人のことを本書は紹介しているが、まさにそのように、たった一言、たったひとつの文章に出会うために、本を読んだっていいのである。むしろそうやって出会った言葉こそが、ひょっとしたら私たちの人生を変えるのだ。
あと、本書ははっきりと「この本で考えてみたいと思っている読書は、『情報』を入手することで終わる読書ではなく、『経験』としての読書です。生活のための読書ではなく、人生のための読書です」(p.26)と書かれている。
いわば実用書はすべて切り捨てられているわけで、まあそれはそれでひとつのスタンスだと思うのだが、個人的には実用書はバカにできないと思っている。本全体を読むことがないのでこの読書ノートにはほとんど取り上げないが、実用書は実用書で、なかなかにあなどれないものがあるのである。例えば育児の「実用書」で救われた人、介護技術の「実用書」に助けられている人が、この世の中にどれほどいるだろうか。実用こそが生活であり、生活こそが人生だ。本書にも取り上げられている柳宗悦の民藝とは、もともとそういうことを言っていたのではなかったか。