【2428冊目】若松英輔『イエス伝』
自らもキリスト教徒であるという著者が、イエスの生涯を独自に読み解いた一冊。念頭に置いていたのが白川静の『孔子伝』であるというのが面白い。白川の孔子伝が、「孔子という存在」をどの類書よりまざまざと伝えていたように、本書はイエスを「今日の隣人」として伝えることを意識して書かれたという。
イエスの生涯は簡単には語れない。元ネタとなる新約聖書の4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)は、それぞれ書かれている内容が異なる。そのため、イエスの生涯、イエスの人物像は常に複数の光で照らされ、揺らいでいる。もっとも、だからこそそこに広がりが生まれ、キリスト教の豊穣さにつながったとも言えなくもない。
思いがけない指摘もある。例えばイエスはどこで生まれたか。「宿屋の馬小屋」と覚えている人も多いと思うが、実はそれは違うらしい。イエスの生まれた中東文化圏では、馬は家の中で飼育され、家族とともに居間で過ごす。ヨセフとマリアが立ち寄った宿屋には居室の空きがなかったため、マリアは「馬の飼い葉桶が置かれた」宿屋経営者家族の居間でイエスを出産したのである。「馬小屋説」は、西洋のキリスト教神学者が中東文化圏のことを知らなかった(あるいは、無視した)ために登場したのだ。
まあ、この程度ならトリビアで済むが、これが「祈りの本質」となるとどうか。世の中のほとんどの人が行っているのは「祈り」ではなく「願い」だという。願いとは、いわば「神との取引」であって、神から自己の利益を引き出す行為である。一方、祈りとは「受容」である。願う者は言葉を発する。だが、祈りは沈黙である。神の言葉を聞くには、人の魂が言葉を発していてはならない。中世ドイツの神秘家マイスター・エックハルトはこう語ったという。
「イエスが魂の内で語るのをもとめるならば、魂はひとりでいなくてはならないし、イエスが語るのを魂が聞きたいと思うならば、魂はみずから沈黙しなければならない」(p.185)
イエスはこの世の権威や価値をことごとく否定した。神殿で商売を行う者を追い払い、覇権や権力を否定した。「自分の目的のために世界を用いる者ではなく、世界に用いられる者、人に仕える者こそがもっとも貴い者であることを示そうとする」(p.161)。キリスト教社会をイエスが訪れたら、きっとイエスはその社会を否定するだろう。イエスはキリスト教徒ではなく(当たり前だ)、さらに言えば当時の宗教界における異端者、逸脱者であった。だからこそのちに処刑されたのだ。虐げられた者、病んだ者、貧しい者、差別された者こそが、もっとも天国に近いところにいるという思想は、魂の革命に他ならなかった。石の神殿ではなく、心の中に神殿を築くことが重要なのだ。
その究極が、イエス自らが十字架に磔となり処刑されるというクライマックスであろう。その罪状の中で、イエスは「ユダヤ人の王」と書かれていたという。王が民のために犠牲となるというこの構造に、著者は東洋における「巫祝王」との類似性を指摘する。古代中国の湯王は9年続いた干ばつの際、自ら犠牲となって焚殺され、その死に応えて雨が降った。かかる「犠牲」は人間にとって「聖」と同義であるという。聖者は天と交わることができた(だからこそ雨が降ったのだ)。イエスの磔刑と古代東洋の観念の共通性を、わたしたちはどのように理解すべきなのだろうか。