自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1875冊目】赤松啓介『差別の民俗学』

 

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)

 

 

庄屋の上が大庄屋だった。かつて陣屋などを務めた陣代も家格が高かった。『夜明け前』の青山半蔵を思い出す。そこから庄屋、組頭、百姓総代と続く。役職につけなかった百姓は、平百姓とか平人と呼ばれた。その下が、自前の農地を持たない人々で、これは下人とか下作人とされた。祭礼では、家格の高い家は拝殿の上に登れたが、下にゴザを敷いて坐る家、炊事などに追われて坐る場所もない家もあった。戒名も墓地の場所も、家格によって区別された。

「スジ」と呼ばれる差別も多かった。もっとも厳しいのは「カッタイスジ」で、これはハンセン病を出した家のこと。結核を出した「ロウガイスジ」や梅毒などの「ハナカケ」、「フウテン」「キツネツキ」などの精神病者がいる家も差別の対象となった。身体障害や知的障害も同様で、そのため家に閉じこめられた障害者が多かった。

職業差別も根強いものがあった。サカヤ、ミリンヤ、コンヤ、アブラヤなどという「屋号」は、廃業後にもそのまま生きていて、結婚話などがあるとそういうところで家柄を吟味された。また、生活保護を受けると「村の厄介」などと呼ばれて三代たたると言われたという。極貧農家のアルキスジ、フレマワリは最低の家格とされたが、さらに被差別部落がその下にいるとされた。著者が生まれ育った地域での話、だそうである。

日本は差別社会であり、階級社会、身分社会であった。その頂点には天皇制があり、最下限には被差別部落があった。少なくとも数十年前なら、「強盗殺人犯某は被差別部落の出身で」とは書かないメディアも、「大学教授某は地域の旧家に生まれ」と平気で書いたという(今はどうだろうか)。その全体構造を放置しておいて、部落差別だけを解決することは難しい、と著者は説く。

 

天皇を頂点とする重層的差別構造が、その基層的下部構造である被差別部落の単独離脱を可能にさせるような条件はない…(略)…どの一つであろうと切離せないほど密着した差別構造の上に、われわれ日本の支配機構があるからだ」(p.52-53)

 

著者は在野の民俗学者である。その視点と思想はスジガネ入りだ。柳田民俗学の最大の欠陥は「差別や階層の存在を認めようとしない」ことだと指摘する一方、夜這いのような性風俗に着目し、庶民の生活と風俗を、まさにその庶民の視点から記述することに徹した。

一見、別々のテーマに見える「差別・身分」と「夜這い」は、赤松民俗学においては繋がり合っている。それは、人々の生活や社会の実相そのものを「下からの視点」で捉えることであった。

それによると、もともと夜這いは一種の娯楽であり、それで子供が生まれたとしても、既婚者ならその夫との間の子供として育てたし、未婚なら堕胎するか、弟や妹として育てたのであった。それが階層分化が始まると、地主や豪農は娘を「同じ家格」同士で結婚させるようになり、誰でもアリの夜這いから、自分の妻や娘を「密封」するようになったのだそうだ。一方、最下層となった女たちは子守りや女中として売られていき、夜這いの対象となる女性が減ってしまった。そこで代わりに発達したのが、金を払って女性を「買う」という行為であったという。つまりそれまで共同体内部の「性風俗」であったものが、資本主義経済の流れに組み込まれることとなったのだ。

さらに、「夜這い」の習慣がある村では、それはどんなふうに行われていたのか……ということも本書にはリアルに描かれているのだが、これがまた、ここにあっさり紹介してしまうのはもったいないほど面白いので、ぜひ直接本書や『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』『非常民の性民俗』などにあたっていただきたい。方法論的に興味深いのは、その際に話をいろいろ引き出す際、男衆からの聞き取りだと、中に海千山千の女性が入ってうまく話を引き出してくれたほうがうまくいくということ。逆に女衆からのオトコ話でも、若い男が一人加わるだけで、とたんにすごい話になってくるという。同性だけの下ネタは、あんがいすぐしらけてしまうというのは、なんだかわからないでもない。

ちなみに著者は、録音はおろかメモもとらないらしい。話題の順序と重要な方言を記憶しておけば、だいたい復元できるそうである。確かに、目の前でメモを取られていたら、夜這いや筆おろしの話をここまでなまなましく聞くことはできないだろうが、それでこれだけ詳細で迫力がある文章を書けるのだから、これはなかなかスゴイことなのだ。