自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1697冊目】柳田国男『一目小僧その他』

柳田国男4冊目。

日本各地の伝説や物語をめぐる論考集。「一目小僧」「目一つ五郎考」「鹿の耳」「橋姫」「隠れ里」「流され王」「魚王行乞譚」「物言う魚」「餅白鳥に化する話」「ダイダラ坊の足跡」「熊谷弥惣左衛門の話」を収める。

遠野物語と違うのは、日本全国から「テーマごと」にさまざまな話が集められているところ。似たような話が続くので飽きそうなものだが、それが飽きないのが不思議だ。むしろ同じようなテーマでも微妙に内容が違ったりして、その意味を考えるうちに、どんどん柳田の術中に引き込まれていく。

結論めいたものがハッキリ書かれているわけではないが、各地に伝わる話の異同を考察していくうちに、日本の「普通の人々」がかつて抱いていた呪術的で自然融合的な世界観が浮き上がってくるのが面白い。貸椀伝説をめぐって人類学者・鳥居龍蔵の「無言貿易説」を批判していく「隠れ里」などは柳田流の論法が鮮やかで、とにかく圧倒的な質量の事例列挙と、そこから浮き上がってくる共通項から、日本各地の隠れ里伝説につなげていく流れがきれいに決まっている。ちょっと具体的に紹介してみましょう。

貸椀伝説とは、細かい異同はあるが、例えば淵の中央に大きな岩があり、前夜にこの淵に向かって椀の数を言って頼んでおくと、翌朝には岩の上にその通りの椀が出ている、といった伝承を指す。ちなみに椀を壊したりわざと返さなかったりすると、その後は絶対に貸してくれなくなるというパターンが多いという(この手の物語の主人公は、必ずそういう「余計なこと」をすることになっているのだ)。その椀を家宝として代々取ってある家もあるらしい。

鳥居龍蔵はこれを無言貿易(沈黙交易とも言い、たとえばある部族が特定の場所に交易に供したい品を置いておくと、他の部族がそれを持っていき、それを持ち去ると共に別の品を置く、といった風習のこと)の一種と解したワケなのだが、柳田に言わせると、いやいやちょっと待て、実際の貸椀伝説のパターンを数多く当たっていくと、そうではないように思われてくるのだが、ということになる。

その詳細はここでは到底書ききれないが、要するに柳田は、この伝説にむしろ、椀貸の場所が水に近ければ龍宮のような水中の楽園を、山中の穴のような場所なら地下の御殿のようなトポスを見出したのだ。だから椀貸伝説は、そうした「隠れ里」との遭遇を伝えたものであるということになる、というのである。

表題作の「一目小僧」も面白い。これは言うまでもなくかの妖怪「一目小僧」の伝説を各地に追ったものだが、本書の中ではおそらく、最もはっきり結論めいたものが提示されている一章だ。そして、その内容がかなりギョッとするというか、コミカルなイメージの「一目小僧」を想像してかかると相当驚かされるものになっている。

前提として柳田は、一目小僧に限らず妖怪、おばけのルーツを「本拠を離れ系統を失った昔の小さい神」(p.60)とする。しかもそれは片目片脚の神なのだ(一目小僧伝説の多くは、片脚の存在として彼らを描いている)。でも、なぜ片目片脚なのだろうか。

ここで著者はもうひとつの「ひねり」を加える。ここでの神は、実は神の代理としての人間であり、さらに言えばかつては「神様の眷族にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習」があったというのだ。つまりは「イケニエ」である。イケニエは殺されることによって神となる。いや、あるいは神を仮託され、神の死と再生のプロセスの一環として殺されたのかもしれない。

そしてなんと、イケニエとなる人は「逃げてもすぐつかまるように」片目を潰すことでイケニエの目印とし、片脚を折ることで逃亡を防がれたのだ。これが要するに一目小僧の起源であると、柳田は本書で主張する。ちなみにこの「イケニエの印」説は、「鹿の耳」という章でも登場する。ここでは耳を欠いた鹿のエピソードから、やはり霊獣である鹿をイケニエに捧げる際に目印として耳を切ったという話につながり、さらにこれが獅子舞や片目の魚の伝説、さらには各地に伝わる「耳切り」の伝説にまで広がっていく(そのもっとも有名なものが、小泉八雲採録したかの「耳なし芳一(本書では「法一」)」だ)。

だいたい琵琶法師のような語り部が、皆盲目なのはなぜか。柳田は「生牲(いけにえ)の耳を切ってしばらく活かしておく慣習よりも今一つ以前に、わざとその目を抜いて世俗と引き離しておく法則が、一度は行われていたことを意味するのではないか」(p.144)などと恐ろしいことを言っている。そもそも語り部は単なる昔語りを行うだけではなく、自らの命と引き換えに神託を伝え、危機を告知する存在だった。いわばそもそもが「神がかり」であったのだった。

まあ、万事この調子で、本書は読めば読むほどどんどん話が広がり、無数の伝説の重なり合いの上に驚くべき日本の観念世界が見えてくる。しかもその観念世界は、昔語りの形でごく最近まで日本の多くの村落に息づき、無自覚的に日本人の世界観を構成していたのだ。本書はその実像を、それが失われる直前にあぶり出してみせた一冊だ。

もっとも、本書の内容がすべて「正解」というワケではない……というか、解説で小松和彦氏が指摘するとおり、この種の伝説や昔語りの解釈には唯一の「正解」などありえない。例えば先ほどの一目小僧=イケニエ説も、谷川健一によって製銅・製鉄の民の姿として再解釈されている(山の中で製銅・製鉄に従事する人々が、過酷な作業の中で片目を失った姿が変容して片目の神となったというもの)。ちなみに私は本書を読むまで、この説を柳田国男の提唱した説だと勘違いしていたが、谷川説だったんですね。

まあ、この手の世界は唯一の「正解」を求めるものではないし、そんな無粋なことはしてもつまらない。むしろ重要なのは、どれほど多様で意外な「正解」を導きだし、それによって世界の解釈をどこまで豊饒なものにできるか、ということであろう。その意味で本書は、日本の解釈を実に豊かにしてくれる、読み物としても非常に面白い一冊だ。