自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1696冊目】三浦佑之・赤坂憲雄『遠野物語へようこそ』

遠野物語へようこそ (ちくまプリマー新書)

遠野物語へようこそ (ちくまプリマー新書)

柳田国男3冊目。昨日とりあげた『遠野物語』のガイド本だ。

それにしても、あらためて思うのだが、『遠野物語』は不思議な本だ。

昨日も似たようなことを書いたが、いろんな話がほとんど順不同に並んでおり、解釈も説明もほとんどない。確かに「物語」ではあるのだが、それにしては語り口はなんともそっけなく無愛想だ。なんというか、素材がそのままゴロンと示されているような、そういう本なのだ。

それがとっつきにくさであると同時に、独特の謎めいた魅力でもある。本書はそんな『遠野物語』を、文学と民俗学のはざまにある本と紹介する。すぐれた文学作品であるからこそ100年にわたり多くの読者を得てきたのであって、同時に、遠野という地域に伝わる物語の聞き書きという面を捉えれば、民俗学という学問分野を日本において先駆した。この本の独自性はこうした「引き裂かれた二面性」に帰着する。

事実、民俗学はここから始まり、多様な発展をとげてきた。しかしそのなかで「学問へと成りあがるために」文学から身を遠ざけようとしてきたという指摘は否めない。その中で『遠野物語』がもっていた文学としての魅力は、その後の民俗学の成果からは、徐々に失われてしまった。

「『遠野物語』の魅力は、村のなかで語り伝えられる話の総体が、ごった煮のように収められているところにあるのではないかと思う」(p.38)
と三浦氏は書く。そうなのだ。ここには「分類」というものがないのである。だが、分類とはそもそも学問の概念だ。地域の伝承とは、本来、神話も伝説も世間話も、あるいは神隠しもザシキワラシも河童も、決して整理も分類もされない状態で伝わるものであるはずだ。

だから『遠野物語』が魅力的だというのと、捉えづらいというのは、結局は同じことなのだと思う。この本のあと、柳田国男が書く本の多くは、様々な伝承が内容や形式によって分類整理され、そこに柳田の解釈が加わるようになっていく。確かにそれこそが民俗「学」なのであろうが、それはあくまで学問のための加工品だ。『遠野物語』の価値は、その原型となる「地域の伝承」が、並び順も含めて、まるごとそのままでパッケージされているところにあるのだろう。

とはいっても、物語の素材だけが示されて解釈を求められるのも、「シロウト」には辛いところがある。その意味では、本書は『遠野物語』に収められている物語の意味を捉え、著者らによる解釈を加えた、いわば民俗学の側面から『遠野物語』を補完する一冊ともなっている。山人、神隠し、ザシキワラシ、動物との関係、河童、死後の世界、姥捨てなど、テーマごとに物語の内容がまず紹介され、その意味するところを解き明かしていくという構成だ。

著者は「古事記」関係の著作で知られる三浦氏と、「東北学」の赤坂氏。東北の古来からの伝承を読み解くにはうってつけの二人である。ちなみに本書は対談ではなく、章ごとにお二人が交代で執筆している。

内容は非常にわかりやすく、それ自体「物語の読み方」としてたいへんおもしろいので、特に解説はいらないだろう。個人的な読後感として、ひとつ印象的な部分を挙げるなら、赤坂氏の「馬鹿と力」と題したコラムだろうか。

ここで氏は、遠野物語の中で一番好きな話として「芳公馬鹿」を挙げる。白痴(差別用語だが、遠野物語で使われているためそのまま使う)の「芳公」という男がいて、彼は往来を歩いていて急に立ち止まり、あたりの人家に石を投げて「火事だ、火事だ」と叫ぶことがある。するとその晩か次の日、その家ではきまって火事を出すのだという。

赤坂氏はこうした男を「聖なるフール」と呼び、次のように書く。

「この「白痴」とされる男には、火事を予知する超自然的な力が認められていたのである。あきらかに、「白痴」はその精神や知能において、マイナスの側に厳しく差別された存在であったが、同時に、たとえ限定された能力ではあれ、「見えないもの」を見たり、「これから起こること」を感じ取ったりするプラスの力をそなえた存在と見なされていたのである。これは「聖なるもの」が帯びている、清浄/不浄、プラス/マイナスをめぐる転換のダイナミズムの表出でもあった。
 わたしたちの時代は、聖なるフールへの愛を忘却しようとしている」(p.116)


言うまでもなく、注目すべきはこの逸話そのものというより、このようなかたちで遠野の人々が「白痴」について語り伝えようとしたことの意味であろう。現代風に言えば、この「芳公」はあきらかに知的障害者である。だが、現代であれば「福祉」の対象としてしか見られないこの芳公を、逆転の価値をもってプラスに見る見方もあったのだ。

確かにそれは差別かもしれない。だが差別感情を表向きだけ隠しつつ「福祉」の名のもとに無力な存在として彼らを扱おうとする現代と、あからさまな差別をしつつ、同時に神がかりの能力を持つ者としての敬意をもって扱う古来の考え方と、果してどちらが正当なものなのか、簡単に答えが出る問題ではないように思われる。そしてそれこそが、この本のもつ「抜き差しならなさ」なのである。