吾峠呼世晴『鬼滅の刃』を勝手に読み解いてみます
コミックスは累計一億部を突破。映画の興行収入は歴代一位をすでに背中に捉え、コラボやグッズもいたるところに。もはや炭治郎や禰豆子の姿を見ない日のほうがめずらしいくらいです。
さて、あまりに人気なので気になって読んでみたところ、いろいろ気になる点、気がついた点がありましたので、少しばかりまとめてみたいと思います。あくまで自己流の読み解きですので、的外れと感じるところもあるかもしれませんが、ある種のお遊びのようなものですのでご容赦ください。
ちなみに私の「鬼滅歴」ですが、コミックスは全巻読了、アニメは26話まで、映画も(子どもの付き合いでしたが)一度観ています。スピンオフ、外伝、著者のインタビューなどの外部情報にはいっさい接していません。
では、参りましょう。なお、ここからはネタバレも一部含みますので、ご承知おきください。
1 物語の王道
最初に、『鬼滅の刃』が物語の基本原則をしっかり踏まえて作られていることを確認したいと思います。
突然ですが、神話学者ジョーゼフ・キャンベルに『千の顔をもつ英雄』という本があります。古今東西の神話や伝説、物語を研究し、そこに通底する特徴を浮かび上がらせた名著です。
かなりボリュームのある本で、内容も多岐にわたっているのですが、ここで取り上げたいのは、キャンベルが挙げている「世界の英雄伝説の共通構造」。具体的には、次の3つの段階です。
(1)セパレーション(分離・旅立ち)
(2)イニシエーション(通過儀礼)
(3)リターン(帰還)
まず英雄は故郷を離れ、旅に出ます(セパレーション)。そこでさまざまな試練を乗り越え、成長します(イニシエーション)。そして、勝利や名誉を携えて故郷に戻ります(リターン)。これがキャンベル物語論の、基本の基本です。
このパターンは、確かにさまざまな物語に共通しています。『桃太郎』や『一寸法師』もそうですし、『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』や『ゲーム・オブ・スローンズ』でも同じです(ちなみに『ロード・オブ・ザ・リング』の前日譚であるトールキンの『ホビットの冒険』は、作中で「行きて帰りし物語」と呼ばれていました)。「ドラえもん」の映画版の多くも、このパターンにあてはまりますね。
しかし、特に有名なのは、ジョージ・ルーカスがキャンベルに学んだ物語構造を生かして作ったのが『スター・ウォーズ』三部作だというエピソードです。
『鬼滅の刃』もまた、家族を殺されて故郷を出た炭治郎が(セパレーション)、修行によって「全集中の呼吸」による様々な技を身につけて鬼を倒し(イニシエーション)、最後は禰豆子を人間に復活させて家族(の一人)を取り戻す(リターン 23巻では実際に故郷の山に帰っています)という点で、この基本原則をしっかりと踏まえていることがわかります。だからこそ、何があっても炭治郎の行動がブレず、物語にシンプルな力強さが備わったのだと思います。
2 もうひとつの『スター・ウォーズ』
さて、先ほどルーカスの『スター・ウォーズ』がキャンベルの物語構造論を下敷きにしていると書きましたが、この超人気映画と『鬼滅の刃』は、おそろしいほどよく似ています。
まず、主人公の炭治郎は、山奥の家で家族と暮らし、炭焼きを営む平凡な少年です。嗅覚が鋭いという異能はあります(このことはあとで触れます)が、特に剣が強いわけでもありません。『スター・ウォーズ』のルークもまた、砂漠の惑星の片隅で育ての親と暮らす、一見したところは平凡で善良な青年でした。
ちなみに少し先取りしますと、炭治郎が実はヒノカミ神楽の使い手、日の呼吸の継承者であることと、ルークが実はジェダイの末裔であることも、どこか似ていますね。ルークの父親は「闇堕ち」して、『鬼滅の刃』でいえば鬼になってしまいましたが。
さて、炭治郎もルークも、自ら望んだわけではないのに、家族を殺され、故郷を出ることになります。しかし、今のままでは、「鬼」にも「帝国軍」にも到底太刀打ちはできません。そこで修行をし、主人公を成長させてくれる「師匠」が登場します。炭治郎の場合は鱗滝左近次、ルークの場合はオビ・ワン・ケノービですね。
さらに、炭治郎の「呼吸法」とルークの「フォース」もどこか似通っています。どちらも剣術というより、どちらかというと呼吸や瞑想によって体内の力を引き出して使う超能力に近いパワーです。ちなみにスター・ウォーズでの「フォース」は禅などの東洋思想の影響を受けていると言われていますので、鬼滅で「先祖返り」したとも言えそうです。
ついでに言えば、この力をマスターしたエリート集団が、『鬼滅の刃』では柱、『スター・ウォーズ』ではジェダイの騎士になるわけですね。主人公が所属するのはもう少しグレードの低いメンバーで「鬼殺隊」あるいは「同盟軍」なのですが。
まだまだあります。主人公は仲間と出会い、パーティを組みます。炭治郎なら善逸と亥之助、ルークならハン・ソロやチューバッカです。禰󠄀豆子はといえば、これはやはりレイア姫でしょう(主人公の妹だし、守られる一方ではなくガンガン戦うし)。違うのは、ハン・ソロみたいな擬悪的なキャラが出てこないところでしょうか(その分、後から出てくる柱の「伊黒」や「不死川」がいますが)。
他にも、ダース・ベイダーと鬼舞辻無惨の類似性など、細かいところでは他にもいろいろありますが、考えれば考えるほど『鬼滅の刃』と『スター・ウォーズ』は似ているのですね。
3 群像英雄劇としての「鬼滅」
さて、似たところばかり挙げてきましたが、実は『鬼滅の刃』と『スター・ウォーズ』には、大きく違うところも少なくありません。
特に、「柱」の存在感の大きさは、「ジェダイの騎士」にはないものです。『スター・ウォーズ』では、あくまで活躍の中心はルークやハン・ソロであり、その他のメンバーは比較的影が薄いと言わざるを得ません。
『鬼滅の刃』における「柱」一人一人の描写の緻密さは、ともすれば炭治郎を食ってしまいそうなほど。また、彼らを個性的で魅力的に描いたことによって、どんな読者にとってもお気に入りのキャラ(いわゆる「推し」)が選べるようになり、人気の爆発の一因にもなっているように思われます。
こうした、いわば群像劇のような描き方で思い出すのは、日本なら曲亭馬琴『南総里見八犬伝』でしょう。8人の個性的な「犬士」が里見家再興のため結集するという、日本を代表する長編伝奇小説ですね。ちなみに八犬士には「牡丹の形のアザ」が身体のどこかにあるのですよ。
また、中国には「八犬伝」のルーツとしても知られる、さらに巨大な物語があります。それが『水滸伝』です。
※水滸伝は最近出た「井波律子訳」がおススメです。
『水滸伝』は、それぞれに異能を有する108人の超個性的な英雄が梁山泊に集い、悪徳官吏を倒すという物語です。一応、宋江という中心人物はいますが、実際には108人全員が主人公とも言えると思います。そして、登場する一人一人に、梁山泊に集うに至った理由と歴史が描かれているのです。
『水滸伝』が直接『鬼滅の刃』に影響しているかどうかはわかりませんが、先ほど挙げた『南総里見八犬伝』のように多くの作品に影響を与えていますので、間接的には影響している可能性はあると思います。日本のアニメやマンガでも、108人とは言わないまでも、10人くらいの個性的な異能をもった主人公グループが活躍する作品は、ちょっと考えてみるだけでもいろいろ思い浮かぶのではないでしょうか。
一方、『鬼滅の刃』がユニークなのは、敵方にも「十二鬼月」という同じような設定をあてて、それぞれに個性と物語をもたせたところ。
こちらは、最近のマンガであれば『るろうに剣心』の「十本刀」や『HUNTER×HUNTER』の「幻影旅団」のような例はあるのですが、さらにそのルーツとなるとちょっと思い浮かびません。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、教えていただけるとありがたいです。
4 「山」と「里」の物語
さて、最後に、少し違った角度から、こんどは主人公の炭治郎について考えてみたいと思います。
ご存知の通り、炭治郎は山奥で家族と住み、炭焼きを営んでいます。炭焼きというのは、木を切って焼くことで炭化させ、それを町に持っていって売る仕事です。
しかし、この「山に人が住む」というのは、かつてはあまり普通のことではなかったのです。
「山」は、かつては神が住む場所とされてきました。
人は「里」に住み、農業をやったり、町をつくって商業をやったりするので、基本的に山に入るということはなかったのです。猟師のように、山に入って仕事をしている人はいましたが、それもあくまで「山の神様」から与えていただく、という感覚だったとされています。竈門一家のように山の中に住む人は、里の人々にとってはアウトサイダーであり、当時の観念では「人の住む領域と神の住む領域にまたがって住む」存在とも捉えられていたと考えられます。
実際、柳田国男は初期の一連の論考である「山人論」において、彼らは別のルーツをもつ「もうひとつの日本人」であると考えていました(後年、考え方がかなり変わったようですが)。また、同じ柳田の『遠野物語』でも、山に入ったまま神隠しにあう人の話がいくつも入っています。
さて、思い出して欲しいのですが、炭治郎には「極端にするどい嗅覚」という異能がありました。また、「ヒノカミ神楽」という、きわめてシャーマニスティックで呪術的な能力の承継者でもありました。
このことは、炭治郎が「タダの一般人」とはちょっと違う存在だったことを意味しているように思います。やはり彼は「山の民」であり、一般人にとってはややアウトサイダー的な存在だったのではないでしょうか。ある意味で炭治郎は、神と人の領域のあわいに住む、半神半人的なポジションにいたといえるかもしれません。
それはまた、同じアウトサイダーである「鬼」に近いということでもあります。
ラストで、炭治郎こそが「鬼の王」たる資質をもっていた、という衝撃的な事実が明らかになりますが、これも、炭治郎が「山の民」であったことと無関係とは思えません。
まあ、順序から言えば、ヒノカミ神楽(日の呼吸)の使い手であった祖先が山に籠って人里から離れ、そこで独自に後継者を育ててきた、ということなのでしょうが。
禰豆子もまた、鬼でありながら日の光に耐えられるようになりますが、これも上弦の鬼の血からつくった薬による影響というだけではなく、もともと最強の鬼の一族としての「素質」があったということなのでしょう。無惨が竈門家の人々を殺し、鬼化させるために、あんな人里離れた場所までわざわざやってきたというのも、やはり何か意味があったのではないでしょうか。
さて、「山」にちなんでもう一つだけ。
先ほど、山は神の領域だ、と書きましたが、古来、山中に入り込んで修行をする人たちがいました。「修験者」「山伏」と呼ばれる人々です。
彼らは「修験道」という日本独特の山岳宗教(神道、仏教、道教が混淆したものとも言われます)に基づく修行を積みました。特に道教の影響は大きく、ある種の仙術にも通じるものがあったとされています。
そして、修験道の修行の果てに神通力を得た存在が「天狗」です。
「天狗」といえば、そう、「鱗滝左近次」ですね。
彼が天狗の面をかぶり、山の中を自在に駆け回るのは、彼自身が「天狗」であり、炭治郎と同類の「山の人」であったということに通じるように思います。
ついでに「面」つながりで言えば、刀鍛冶の「鋼鐡塚蛍」は、ひょっとこの面をつけています。
この「ひょっとこ」の語源には諸説ありますが、そのひとつに「火男」がなまったというものがあります。
口をすぼめて火を吹いているさまが、あのお面になったというわけですが、刀鍛冶という職業もまた、かまどに向かって息を吹きかけ、火を起こして鉄を鍛えるものです。だからこそ、彼のつけているお面は「ひょっとこ」なのでしょうね。
さらに、刀鍛冶のような職能もまた、一種の異能であり、呪術的な存在とされてきました。その中には、諸国を渡り歩いた人々や、あるいは一族の秘密を守るため、隠れ里にこもり刀を作っていたケースもあったようです。
刀鍛冶たちが「隠れ里」にいるという設定も、そのあたりに来歴があるのかもしれません。このあたりはまた、いずれ調べてみたいと思います。
ただ、日本全国にこうした「隠れ里」があること自体は知られています。平家の落人伝説あたりがルーツになっていることが多いようですね。
さて、一気に書いてきましたが、他にも「鬼」をめぐる日本史上の意味や、時代背景が大正時代であることの意味など、いろいろ気になる部分がまだまだあります。いずれ機会があれば、また続編をまとめてみたいと思います。
ここにあげたのは一例で、他にもいろんな「読み解き」ができることと思います。正解があるようなものではありませんので、いろんな仮説を立てて遊んでみるのも面白いのではないでしょうか。
たとえば、なぜ鬼が苦手としているのは「藤の花」なのでしょうか。
あるいは、「鳴女」はなぜ単眼なのか。無惨は最後、なぜ「巨大な赤ん坊」のようになったのか。亥之助はなぜかぶりものをしているのか、等々。
ちなみに「鬼」に関して言うと、文明開化が行き着いた果ての大正時代に鬼退治が果たされたことには、やはり何らかの意味というか符合があったと考えるべきかと思います。
爆発的な人気の理由についても、いずれ考えてみたいですね。
では、またお会いしましょう!