自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1689冊目】イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)


教育・学校本17冊目。

これは、おそろしくラディカルな反−学校論だ。なにしろ第1章のタイトルが「なぜ学校を廃止しなければならないのか」なのだから、タダゴトではない。

しかし、なぜ「学校は廃止すべき」なのか。イリイチがそう主張する理由は、あえてざっくりとまとめれば、現代社会がきわめて問題の多い社会であり、学校こそがこうした現代的価値観を再生産し続けている「元凶」だからである。

本書でいう現代社会とは、巨大な生産−消費サイクルに呑み込まれた社会である。人々は自発性を失い、お仕着せの製作物を買い求め、それを消費することしかできない。こうした生活は、大量に資源を浪費し、環境汚染を引き起こす。そこでは、生産者と消費者は完全に分断されてしまっている。イリイチは、こうした現代的価値観は「物質的な環境汚染」「社会の分極化」「人々の心理的不能化」をもたらすと指摘する。

こうした近代批判自体は、まあ「よくある話」だろう。本書がユニークなのは、こうした制度−価値のいわば雛形が学校にはあり、人々は学校を通過することによって、こうした現代的価値に洗脳されてしまうとした点だ。いわば本書は学校について論じつつ、そのスコープを通じて、実は現代社会全体の病理を暴き出した一冊なのだ。

そのことは、イリイチの考える学校のシステム自体によくあらわれている。個々人の意欲や能力を無視して一律にカリキュラムを組むこと、教師はあくまで教える側、生徒はあくまで教わる側という明確な役割分担があること、学校という場が社会に対して閉じていること、そしてなんでも測定しようとし、数値化しようとすること。イリイチにいわせれば、これらすべてが、分業化、数値化、タコツボ化といった社会のミニコピーなのだ。

そして、そこで教えられるのは当然、現代社会を生きるための価値観である。言い換えれば「誰かがどこかで」大量生産し、大衆はそれを消費する、それが社会のあり方であり、人間の生き方だということになるのである。

そして、イリイチはこうした現代社会の価値観をつくりだす学校のありようを批判するだけでなく、あるべき「新しい正式な教育制度」について提言する。すなわち「第一に、誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること、第二は、自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること、第三は公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやること」である。

こうした新たな教育制度のためにイリイチが提唱するのが、ネットワーク的な教育システムだ。双方向的でダイナミックな、教える側と学ぶ側のマッチング・システムがその核になると思われる。そこに情報提供と教育クーポンのしくみが加われば、少なくとも理論上は、学校に代わる革命的な教育機構ができるだろう。

イヴァン・イリイチの本は初めて読んだが、刺激的でたいへん面白い。学校に対する見解も、いろいろ気になることはあるが(特に初等教育をどうするかは気になるところ。最低限の教育は国家が保障したほうがよいのではないか)、それより学校を通して見えてくる現代社会の分析と批判に興味深いものがあった。

アリストテレスは「製作」と「行為」を分けて考えた。そして、現代は「製作」こそが中心で、余暇は人々が働けるようになるために重要だ、と考えたのがウェーバーだったが、アリストテレスはむしろ、労働は余暇をもつために必要だと考えていたという。余暇こそが人間らしい「行為」に励む時間なのだ。

そういえばハンナ・アレントも「労働」「仕事」「活動」を分けて、活動に一番の重きをおいていたが、なんだか共通するものを感じる。というか、これこそが何のために生きるか、という人間の根本問題であろう。イリイチは本書で、学校と「脱学校」をめぐる議論を通じて、まさにこの根本問題に迫ったのだった。