自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1691冊目】奥地圭子『不登校という生き方』

教育・学校本19冊目。予定ではいよいよあと一冊。

タイトルどおり、本書は「不登校」をめぐる本。著者はフリースクール東京シューレ」の創設者だ。今でこそフリースクールもそれなりの(あくまで「それなり」だが)市民権を得るようになってきたが、著者が東京シューレを開設した1985年は、まだまだ「登校拒否に対しては学校復帰が「解決」である」「登校拒否は治療や訓練の対象である」という考え方が中心的な、著者いわく「首縄時代」(首に縄をつけてでも学校に連れていく時代)だったらしい。ちなみに、当時はまだ「登校拒否」という言い方だった。

その中で、著者はあえて不登校児のための「居場所」をつくったのだから、これはまさにパイオニアである。しかも著者らの活動や言論は世論や国を大きく動かし、「不登校は本人や家族の問題」というところから「不登校は誰にでも起こりうる」という認識へと、意識への転換にも大きく寄与したのだ。

そのようにして20年にわたり不登校を考え、行動し続けた著者の言葉は、さすがに一本、ぴんと筋が通っている。自らの実践の中から生み出され、鍛えられてきた言葉だ。

著者に言わせれば、そもそも、何が何でも学校に行かなければいけないというスタンスがおかしい。学校に合わない子どもというのは厳然として存在するのだから、そうした子どもに対する何らかのオルタナティブがなければならないはずだ。したがって、著者の論は、厳密には学校否定ではない。あくまで、学校「だけ」が教育の場であることへの批判なのだ。

「……それは、既成の公教育の否定ではなく共存なのです。つまり、旧来、行政に要求し、不満や文句をぶつけてきた運動のあり方が時代と共に変化せざるを得なかったように、教育も、学校の批判をした挙げ句不毛な対立構造になる、というようなことを目指すべきではなく、「自分たちでつくる」「つくり出しながら生きる」という姿勢が大切と考えたのです」(p.108)


だから、当然ながら著者は、不登校問題の解決は「学校に再び行けるようになること」とは考えない。というよりむしろ、不登校そのものは決して「問題」ではないと著者は言う。問題は「不登校を問題だと考えること」のほうなのである。それよりも不登校の子に対応した、学校のオルタナティブがないことが問題なのだ。それはフリースクールかもしれないし、ホームエデュケーションかもしれない。

そもそも、不登校を「問題」とみなし、再登校に向けて努力すべし、という考え方は、基本的なところで「子ども自身が変わるべき」という発想をもっている。こうした考え方からすれば、当然ながら子どもを学校に「適応」させることが目標となる。

これに対して著者の考え方は、子どもを中心に考えた上で「社会が変わるべき」という発想が根底にあるように思われる。これって、思えばこないだ読んだフレイレの教育論に似ている。「自分」が社会に合わせて変わるのではなく、「社会」を自分にあわせて変えていく、という思想だ。

こう言うと、「でも、学校を出て社会に出たら、結局は子どもは社会に合わせなければならないではないか」と仰る方もおられよう。学校は社会適応のための訓練の場でもあるのだから、ちゃんと行かなければならない、と。この考え方を敷衍していくと、「学校にちゃんと行かないと就職できない」ということになってくる。不登校の子をもつ親御さんなら、こうした不安をもつことは当然だろう。

だが、本書にはこうした考え方への反証が「不登校の子どもの自立」として一章を割いてなされている。不登校から就労に至ったケースが多数紹介され、そのためのいろいろなサポート制度も詳しく解説されている。

思うに、重要なのは、社会は学校よりもずっと幅広く、懐も深いということを知ることなのだ。もちろん不登校がハンディとなる場合もある。だがそれでも、無理に学校に行かせることの弊害のほうが、ずっと大きい。著者は不登校の子の親にこのように言っているという。

「進路はある、それはお子さんが決める。しかし、不登校を劣等感のかたまりにしてしまうと歩きにくい。親のやることは、不登校であることも含めたその子の存在の肯定と、本人が望むことへの協力だ」(p.138)


読んでいて思ったのは、結局、不登校というのは、子どもよりむしろその親を試すものなのではないか、ということだ。学歴社会をくぐり抜け、自分を殺して必死に社会に適応させている親にとって、不登校の子どもというのは自分がしがみついている価値観を脅かす存在だ。そんな「甘い」生き方を認めてしまったら、今までの自分の必死の努力は無意味になる。ニートやひきこもりに対する不安感やいらだちも、一端はそういうところにあるように思う。

でも、それってそもそも、出発点がおかしくないだろうか。不登校の子どもたちの文章を読むと、なんだか人間としてはこの子たちのほうがまっとうなことを言っているように思えてならない。

このあたりは上野千鶴子の本にあった「学校化社会」の弊害そのものであるように思う。学校的な価値観が社会全体に蔓延しているから、そこから外れた不登校が極端に問題視され、あるいはタブー視されるのだ。実際、不登校の問題を考えていくと、そこに出てくるのは見事なまでに、学校教育そのもの、そして現代社会そのものの「ネガ」なのだ。

本書を「教育・学校本」として、あえて取り上げたゆえんである。いろいろ考えさせられた一冊。