自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1668冊目】田中久文『九鬼周造 偶然と自然』

九鬼周造―偶然と自然

九鬼周造―偶然と自然

最近続けて読んでいる九鬼周造関係の一冊。『「いき」の構造』から『偶然性の問題』『文芸論』まで、その思想の変遷をたどる。本書を読むと、『「いき」の構造』は九鬼思想の原点ではあるが、同時に、入口にすぎなかったことが分かる。

ということでまずは『「いき」の構造』のおさらい。男女の間をあえて「合一」に至らせず、ということは平たく言えば「ヤってしまわず」、二元的関係を維持し続けること、相思相愛の中に固定せず、むしろ常にたゆたい、変化し続ける緊張関係のうちに置きつづけること。それが九鬼思想の特徴であった。著者によれば、それは同時に「自己」をすら自己として居着かせず、他者の前で演技するものとして自己を捉えることでもあったという。

「「いき」における〈自己〉の構造は、二元的な緊張関係即ち、自己分離的志向と自他合一的志向との微妙なバランスの上に成り立っているものであった。したがってそこでは他者の視線というものを抜きには〈自己〉は成立しない。つまり他者の前で〈自己〉を演じることによって、初めて〈自己〉というものが生れるのである…(略)…「演技」する以前には〈自己〉というものは存在しないのである。他者の前で演じるという自他の緊張関係を通じて、初めてそこから〈自己〉と他者が生成していくのである」(p.85-86)


ところが、こうしたいささか技巧的な自己−他者観は、その後の著作や講演の中でいろいろ揺れ動いていく。その結果、九鬼が行き着いたのは「自然」に日本の思想の根本を置き、自然において二元的な緊張を統合させるという考え方であったらしい。

自然といっても、ここでの意味は、現代の「自然保護」のような自然とはやや異なる。ここで出てくるのが、賀茂真淵本居宣長。たとえば宣長は「神の道」を「おのづからな自然の道」と説いた。この「おのづから」というありようが、ここでいう「自然」ということになってくる。九鬼自身の論文から引用してみる。

「日本の道徳の理想にはおのづからな自然ということが大きい意味を有っている。殊更らしいことを嫌っておのづからなところを尊ぶのである。自然なところまで行かなければ道徳が完成したとは見られない。その点が西洋とはかなり違っている」(p.164)


この後の文章で、九鬼は西洋と日本の「自然」と「自由」をめぐる観念を対比し、西洋では「自然」と「自由」が対立することが多いのに対し、日本では両者は融合したものと考えられていると説明する。「自然におのづから迸り出るものが自由である」という、ここにおいて偶然性=自然=自由=おのづから=道徳が結びつき、九鬼独特の日本思想論ができあがる。

そして、『「いき」の構造』でみられたような二元的緊張関係もまた、こうした「おのづから」の自然観・自由観のなかに包摂されていくのだが、興味深いことに、ここで突然、ゲーテの自然学が登場する。なんと九鬼は、日本的な自然観に近いものを、ゲーテの自然観に感じていたらしいのだ。特にその色彩論が、九鬼の思想とかなりシンクロしているらしい。

ゲーテの色彩論については本書にダイジェストされているので、ここでは詳しい部分は飛ばして結論部分だけをみていく。本書によると、ゲーテの色彩論では「光と闇という「原型」が対立しながらも調和することによってすべての色彩をみようとする」。その例としてあげられているのが「補色」という現象で、光の当たっている部分の色が変わると、物陰にあたる部分の色も変化して感じることを言う。こうした現象から、ゲーテは「調和的対向関係」を相互に対立する色彩の間に見い出し、こうした「対立しながらも呼び求め合う」なかで「一つの調和的で全体的な宇宙」がたちあらわれると考えた。

こうした光と闇の対立・調和関係から九鬼はヒントを得ていたらしいが、本書によるとさらに九鬼は、光よりもむしろ「闇」を色彩の根源に置き、そこに光が加わることでさまざまな色彩が生れると考えていたという。そこには「無」というものを宇宙の根底に置くという思想があったとのことで、このあたりが九鬼ならではの東洋的なオリジナリティなのだろう。

また、こうした日本思想観から導きだされる芸術論についても本書は紹介しており、これもまたなかなか素晴らしい。特に詩歌における「押韻」の重要性に着目したというのがおもしろい。九鬼はこう書いているのだが、う〜ん、深い。

「現実に住むことを好むものは現実に住めばよい。ただ然し、現実を超越した純美と自由に憧れるものには律と韻の世界に逍遥することが許されている」(p.236)