【1415冊目】内田樹『街場の文体論』

- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: ミシマ社
- 発売日: 2012/07/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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14講にわたる、内田樹「最後の授業」。タイトルは「クリエイティブ・ライティング」。
クリエイティブ・ライティングなんて「いかにも」な感じのタイトリングだが、そこは内田樹のこと、ただの文章論で済むワケがない。文章論、文体論と言いつつ、話題は常に四方八方に飛びまくる。心身論や少子化問題、就活など、一見ぜんぜん関係ないことを話しているようで、最後はしっかり「文体論」に戻ってきてくるあたりは、さすがの名人芸である。
アナグラム、階級社会と言語、アルファベットと漢字、外国語教育など、多彩なトピックを通過しつつ、一貫して著者が語ろうとしていたのは「言葉を人に届けるためにはどうすればよいか」という、ただ一点であるように思う。「届く言葉」に必要な要素について、本書の最後の最後で、著者はこう言っている。
「「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある。できるだけ多くの人に、できるだけ正確に、自分が言いたいこのことを伝えたい。その必死さが言葉を駆動する。思いがけない射程まで言葉を届かせる」(p.285)
読みやすいかどうか、表現が正確かどうか、韻律が美しいかどうか、といった要素は、あくまで二次的なものにすぎない。重要なのは言葉が「外に向かっている」こと。「読み手に敬意をもっている」こと。自分のために書かないこと。
本書で繰り返し書かれている内容は、すべてそこにつながってくる。そして、そうした条件下で書かれた言葉は、結果として「生成的」になる。言葉が活きる。血が通う。
そして、本書のもとになっている著者の講義自体が、実はまさしく「生成的」で「外に向かっている」そのみごとな実例になっている。大学の講義の中には、決まり切った内容を原稿を棒読みするように語るようなものもあるが、著者の講義は全然違う。あらかじめ決まったことを話しているのではなく、その瞬間瞬間で著者に「降りてくる」言葉を話している(著者自身は「憑依状態」と表現している)。だから受講生は、論証が多少飛躍していても、多少の矛盾があっても、気づく間もなくぐいぐいと「聞かされている」。講義と著述で、著者は同じことをやっている。
そんなことをしていると、行き当たりばったりの文章になってしまうのではないか、とも思えるが、案外そうでもない。むしろそうやって憑依状態で書いている時、語っている時には、未来から言葉をたぐり寄せているようなところがあると著者は言う。
「つまり、僕たちが文を書いているときに、「今書いている文字」が「これから書かれる文字」を導き出すというよりはむしろ、「これから書かれるはずの文字」が「今書かれている文字」を呼び起こしている。いわば弓で遠くの的を射るようなしかたで言葉は連なっている」(p.93)
これって、実際に自分でいろいろ書いているとすごくよくわかる。比べるのも僭越な話なのだが、この「読書ノート」にしても、読んでいる最中にあらかじめ「これを書いてやろう」「こういうふうに書いてやろう」と思ったとおりに書こうとしても、あまりうまくいかない。少なくとも私にとって、準備や構成はむしろ文章を殺してしまうものなのだ。むしろ書きたいことの「ゆくえ」がどこかにあって、そこからするすると文字が紡ぎだされていくような時のほうが、自分で納得のいく文章になっていることが多い。
もうひとつ、文章における「定型」と「オリジナリティ」についても、すごく重要な指摘がなされている。それによると、生成的で独創的な文章とは、実はそれだけでいきなり生まれるワケではない。むしろ「破格や逸脱というのは、規則を熟知している人間にしかできない」(p.262)と著者は言う。そして、そのためにはまず定型を、規則を身体レベルで自分に刻み込む必要がある。
「定型性を身体化して、自分のなかに完全に内面化してしまう。自分に与えられたローカルな母語的現実を「普遍性を要求できないもの」として引き受け、それを深く徹底的に内面化していく」(同頁)
そのためにはどうするか。著者が紹介する方法は「母語の古典を浴びるように読む」というものなのだ。本書の中で私がもっとも感じ入ったのは、実はこのくだりであった。そしてこの方法論とは、まさに日本の芸道のメソッドにほかならない。つまりは「守破離」なのである。
文体論であって文体論にとどまらず、しかも文体論に戻る。現代を生きるヒントが詰まった、変幻自在で自由自在の名講義。文章を書かない人もぜひ読むとよい。