自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1391冊目】小川洋子『原稿零枚日記』

原稿零枚日記

原稿零枚日記

日記のようだが、日付は特定されない。「九月のある日(金)」「十月のある日(火)」「次の日(水)」といった、漠然とした書き出しに続いて、日記とも小説ともつかず、現実とも幻想ともつかぬ虚実のあわいが淡々と描かれる。

現実と非現実を隔てる枠がいつのまにか溶けて消えてしまうのが著者の小説だが、本書はさらに小説という「枠」さえ取っ払ってしまう。原稿がなかなか進まない作家の日記という体裁を取りつつ、その中でふしぎな物語を綴っていくスタイルに、本書の後に書かれた『人質の朗読会』を思い出した。あの作品もまた、朗読テープという奇妙な「体裁」の中に、豊かで奇妙な物語が封じ込められていた。

著者は物語そのものだけではなく、それが語られる「形式」や「流儀」に着目しているのだろうか。「語られ方」と物語の関係に目を向けているのかもしれない。そして確かに、どのような「語りの方法」が使われるかによって、物語そのものはいろんな見え方がする。本書でいえば、作家の日記の中に織り込まれることによって、物語は単なる「短篇小説」として書かれるのとは違ったリアリティと、違った「不思議さ」をもつことになる。

ひそかに近所の学校の運動会や病院の新生児室を訪れ、苔料理専門店や時間厳守にこだわるツアーを経験し、「あらすじ係」に無類の能力を発揮する。そういうニッチな日々を描く中でどうしようもなく感じるのが、著者自身を思わせる書き手の「生きづらさ」であり、この社会や世間への「なじめなさ」であった。

盆栽フェスティバルでの取り残され感、孤独な「運動会荒らし」や「パーティー荒らし」への共感、暗唱クラブでの劣等感など、いたるところで居場所がなく、居心地の悪さを至るところで感じる「私」がいる。そんな「私」が発見した次の「真理」には、強く共感できた。なぜなら私自身、似たような居場所のなさや居心地の悪さを、いろんな場所でしょっちゅう感じるからだ。飲み会でもイベントでも、私は彼女の言う「空洞」にいっつも身をひそめようとしているのかもしれない。

「運動会にも子泣き相撲にも新生児室にも、私のような者のためにほんのささやかな空洞が用意されている。誰の計らいかは分からないけれど、そこに身を潜めていれば黙って見過ごしてもらえるという場所が必ずある。当事者たちの邪魔にならない片隅に、目立たない入口が隠されている。本当にそこを必要としている者にしか、入口のノブは回せない」(p.229)

小川洋子の小説は、極端に言えば、どれもこの「空洞」を見ることができる人、あるいはそんな「場所」を探している人たちのための物語であるような気がする。そこから見える「ちょっと変わった世界」を見せてあげることで、ほら、ここに入口のノブはあるんだよ、あなたもそこにいていいんだよ、と言ってくれているような。だからこそ、私はこの人の小説世界に、奇妙で幻想的な、でもどこか懐かしい匂いを感じるのかもしれない。

人質の朗読会