【1153冊目】森巣博『越境者的ニッポン』

- 作者: 森巣博
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/03/19
- メディア: 新書
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半ば義務的に目を通してはいるが、最近、新聞というヤツにはほとほと愛想が尽きている。事実を知るにはネットとテレビで十分(ただし、コメンテータの「解説」はカットして)。そして、その「意味」を読み解くには、しかるべき雑誌が良い。いろいろ試した結果、今のところ、継続して読んでいるのは「クーリエ・ジャポン」。そして、その中でも楽しみにしている連載が、町山智浩の「USニュースの番犬」、富坂聰と中島岳志がコラボしている「「龍」と「象」の比較学」、そして本書の元となった森巣博の「越境者的ニッポン」だ。
著者はオーストラリアを拠点に活動するプロの博打打ちだという。だが、その発言は、本書や雑誌のものを見る限り、たいへん「まっとう」なものだ。ただし、その「まっとう」は、日本国内で見ればおそらく「異様」に見える類のまっとうさである。
例えば、本書の冒頭で取り上げられるのは、渋谷駅前にたたずむ「忠犬ハチ公」の銅像だ。その姿を見て、著者はこう書く。
「主人が死んでも忠実だったという理由で、一日数十万人が行き来する駅前に犬の銅像を建てる国って、あるのだろうか?」
「犬コロをお手本として国民教育をおこなう近代国家って、日本以外にあるのだろうか?」
著者の言が「まっとう」かつ「異様」という意味が、おわかりいただけただろうか。
つまり本書で問題とされているのは、そうした「考えてみれば妙なモノなのに、日本人がちゃんと考えてこなかったもの」ばかりなのだ。それは例えば、君が代斉唱に際して起立しなかった教師を「研修」に送り込み、思想改造を試みることであり、中国のナショナリズムを非難しつつ日本のナショナリズムは「愛国心」と呼ぶ人々であり、西欧なら「極右」に分類されるであろう人種主義的差別発言を繰り返す人物に、なんと二百万から三百万の都民が票を投じるという状況であり、死刑を殺人であると認識しているとは思えない「8割の世論」による死刑賛成であり、オウム真理教の信者への不当逮捕をへらへら笑って見ているジャーナリストであり……エトセトラ、エトセトラ。それらはマスメディアがこれまできちんと報道してこなかった(ごまかしてきた)問題点であり、われわれもまた、正面から逃げずにきちんと考えることをしないで過ごしてきた部分である。
そこに欠けている要素は、何か。著者はそれを「日本国民は、無知になってしまったのだろうか?」と問う。そこでいう無知とは、知識がないということではなく「疑問を発せられない状態」をいう。前にこの読書ノートでも紹介したフランツ・ファノンの言葉だという。与えられた問いに答えるのではなく、問いを発する能力。それこそが日本人には必要なのだ。
本来、そうした能力をもっとも先鋭的に持っていなければならないのはマスメディアだ。しかし、現状はどうか。冒頭に新聞のことを書いたが、新聞のみならず、ジャーナリストそのものに問いを発する能力が著しく不足している。それが「与えられた問題に答える」ことに秀でた日本式エリート教育の弊害なのか、上層部の癒着が原因なのか、官僚の情報コントロールがよほど巧みなのか。たぶんその全部なのだろう。
だがそんなことを言っていても、マスメディアが突然まともになるわけもない。だから、われわれは自衛するしかない。「問いを発する」能力を、ひたすら鍛えることによって。そして、本書の著者のごとく、問いを発する力に秀でた人物に学ぶことによって。本書の内容自体には、いろいろ反発を感じる人もいるだろう。確かに議論の筋道はかなり乱暴だ。冗談半分のものも、暴論といってよいものもある(生真面目な人は読まない方がいいかもしれない)。だが、その前提になっている「問い」の立て方には、いろいろと学ぶ点があるように思われるのだ。繰り返しになるが、マスメディアの流す情報から自らの身を守るために。