自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1410冊目】ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

ナショナリズム研究の「古典」とされる一冊。とはいえ、この本が世に出たのは1983年と、わりと最近なのだ。世の中には、ほとんど出た瞬間からその分野の「古典」と呼ばれるような本があるが、本書もそうした一冊といえるだろう。

とはいえ、意気込んで手に取ったものの、読み通すのはちょっとしんどい本だった、というのが正直な感想。私自身の理解力の限界か、翻訳のせいなのか、そもそも元の文章が混み入っているのか、内容がなかなか頭に入ってこないのだ。個々のトピックやテーゼはそれなりに見えるのだが、前後を何度も読み返さないと相互の関係性が見えてこなかった。

ということで、以下はそうした生煮えの読後感をそのままに、現時点での理解(誤解?)をここに刻印しておきたいのだが、まず本書の核となっているメッセージは、国民、ネーション、国民国家ナショナリズムといったものは、あくまで人々の想像力の産物にすぎず、しかもそれが生まれたのはわりと「最近」の出来事であったということだ。

では、なぜ「国民」なるものが人々の意識に登場し、その感情や行動を支配するようになっていったのか。ここで著者は、歴史上のある時期において、それまで人々の精神を支配していた3つの基本的文化概念が失われ、その「空席」に国民という概念がすべりこんできたことを指摘する。

具体的には、失われた概念の第一は「特定の手写本語(聖典)語だけが、まさに真理の不可分の一部であるということによって、存在論的真理に近づく特権的手段を提供するという観念」、第二は「社会が、高くそびえたつ中央―他の人間から隔絶した存在として、なんらかの宇宙論的(神的)摂理によって支配する王―の下で、そのまわりに、自然に組織されているという信仰」、第三は宇宙論と歴史とは区別不能であり、世界と人との起源は本質的に同質であるとの時間観念」である(p.63……分かりにくい訳文でしょ?)。

これらは要するに、空間的・時間的なレベルで人々の世界観を規定していた基本要素であった。ところが、急激な近代化の中でこうした「古い観念」が解体するに従って、人々と世界をつなぐ「よりどころ」が失われていった。

そこに登場したのが「出版資本主義(プリント・キャピタリズム」であった。この「出版資本主義」こそが、同じ言語、同じ情報という水平的な共有関係をつくりだすことによって、新たな「想像の共同体」としての国民をつくり出す一因となっていくのだ。いわば「同じ言葉」で「同じ情報」を読むことのできる人々が、一枚の新聞を介して意識を結びつけられていったのである。

こうやってみていくと、ナショナリズムはいかにもヨーロッパで生まれたものであるようにも思えるが、本書のもうひとつの重大な指摘は、むしろナショナリズムを先駆したのは、南北アメリカの「クレオールナショナリズム」であった、という点であろう。

ここでクレオールとは「純粋のヨーロッパの出自をもつが、南北アメリカ(やがては、ヨーロッパ以外の全地域)で生まれた者」を言うとされている(p.112原註)。

この着眼は面白い。ポイントは、第一にクレオールがある意味「根無し草」であるということ、第二に彼らの多くが、本国から植民地として搾取を受けていたことだ。

このクレオール社会に出版資本主義が入り込むことで(かれらは本国ではなく植民地の新聞を読んだ)、虐げられた植民地の同胞としての連帯感が生まれ、ナショナリズムの原型をかたちづくっていったというのである。アメリカ合衆国の成立の歴史なんて、典型的な例といえるだろう。

他にも本書は、上からの「公定ナショナリズム」についても触れられており(ここでは幕末の日本についてもなかなかおもしろい分析がある)、ナショナリズムの一筋縄ではいかない特徴を知ることができる。

しかし本書の功績は、そもそもナショナリズム国民国家という概念を「近代以降、人々の想像の中に生じたもの」として根本的に捉え直したという、まさにその点にあるというべきだろう。もっとも、だからといって著者はナショナリズムを軽視しているわけではない。むしろ目に見えない想像の産物だからこそ、扱いがむずかしく厄介な存在であると理解すべきなのだろう。

ナショナリズムにいささか無自覚に近寄りすぎている今の日本や中国でこそ、読み直されるべき一冊。願わくば新訳が世に出ることを。