hachiroetoのものぐさ遊読帖

自治体職員。仕事は福祉系。読書は雑食系。

【497冊目】ジグムント・バウマン「コミュニティ」

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティ 安全と自由の戦場

本書はなかなかの難物であった。わかりやすいとはお世辞にも言えない。しかし、その中で断片的にせよ、はっとさせられる指摘や展開がある。そして、コミュニティというもののあり方が、グローバリズム国民国家と大衆社会が席巻するこの現代社会ではきわめて難しくなってきていることくらいは、なんとか読み取れたように思う。

著者は現代を「リキッド・ソサエティ」つまり液状化した社会と定義する。それまでの、国家や共同体といった制度がそれぞれの領域を堅持し、いわば棲み分けができていた時代が終わり、資本主義(特にグローバリズム)や大衆社会の進展によってお互いの境界線が溶解してきたのが現代であるというのである。その中でコミュニティは、一方では国民国家によって国民統合への阻害物とみなされ、もう一方ではリベラリズムによって、個人の自由を抑圧する負の存在として糾弾されてきた。要するに、左からも右からも責め立てられ、衰退に追い込まれてきたのがコミュニティであった。しかし、社会が液状化して個々の人間が巨大で無名の「大衆」なるものに飲み込まれると、自分の「居場所」を見失った人々に不安がきざす。その「不安」の受け皿となった新たな「コミュニティ」は、一方では金持ちによる「ゲーテッド・コミュニティ」であり、もう一方ではエスニック・マイノリティによるコミュニティ、そしてゲットーであった。

そしてもうひとつ、コミュニティをめぐって注目すべき動きがある。いわゆる「コミュニタリズム」(共同体主義)の台頭である。しかし、その内実は、実は排外主義的で保守的な団体の復権であり、著者はこの動きに与するわけでもない。むしろ、著者はコミュニティの衰退をひとつの支点として、現代社会のありようを分析しているにすぎないとも言える。今後、コミュニティが再び顕在化するとしたら、それは「分かち合いと相互の配慮で織り上げられ」「人を人たらしめる平等な権利や、そのような権利の上で人々が平等に行動しうることについて、関心や責任を有する」コミュニティであるはずだ、と著者は言う。これは旧来の閉鎖的で抑圧的なコミュニティとは「別の」新しいコミュニティ像である。しかし、こうしたコミュニティを人々が主体的に構築し、権利と平等を尊重した相互依存関係の中で生活していくほかに、この不安で覆われた社会を生き延びる術はないのかもしれない。