【492冊目】貫井徳郎「プリズム」
- 作者: 貫井徳郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2003/01
- メディア: 文庫
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小学校の女性教師、美津子が自宅で殺害された事件を、4つの章で語り手を変えて描く。異なる4つの方向から、それぞれの視点から見た被害者像が、文字通りプリズムに写したかのように多面的に照射されるという仕掛けになっている。最初の章が教え子の小学生、次が同僚教師、次が前の彼氏、次が、まあ言うなれば今の彼氏。それぞれ、前の章で展開された推理の結果、もっとも怪しいとされた人物が次の章の語り手になっていくのだが・・・・・・
(以下、ネタバレがあるため白字)
結局、誰が犯人なのか、明確な回答は下されないという、いわばオープン・エンド的な終わり方となっている。この終わり方にはびっくり、というか、正直言って拍子抜けした。「あとがき」によれば、これは「真相が指摘されてもそれはあくまで作者が恣意的に決めたものである場合が多い。ならば、そんな作者の都合はいっさい排除」してみようとする試みであり、「本来作者が握る決定権を、読者に委ねてしまおうと企図」したものだという。
確かに、理屈としてはそうかもしれない。複数の仮説のいずれもが成り立ちうるなら、どれを採用するかは確かに作者の恣意である。しかし、それはなんだか、あまりにも理念的に過ぎる考えであるように思う。これは私個人の期待の問題なので、他の方は違うのかもしれないが、少なくとも私にとって、推理小説を読む愉しみのひとつは、一切の解答が成り立たないと思われる困難な状況で、作者が唯一成り立ちうる(と思われる)解答を提示することで、こんがらかっていた謎が一気にするするとほどけていく快感を味わうことにある。正直言うと、自分で謎解きをしようなどとはハナから考えていない(一応、読みながら考えてはみるが、私ごときの推理力の水準を凌駕できない推理小説では困るのである)。こういう怠惰な読み手からすれば、複数の仮説が成り立ちうるという前提そのものが、すでにルール違反であり、推理小説としては欠陥商品なのである。これって、推理小説の読み方としては間違っているのだろうか?
しかも、本書で提示されている仮説のいくつかは、4つの章の語り手のいずれかを犯人としており、それらが「成り立つ」とみなすことは、語り手の信頼性が問われるということである。だが、自分が犯人だとすれば、そんな語り手がここまで熱心に犯罪捜査をしようとすること自体が不自然だし、小説内で展開されている語り手の「心理描写」自体が嘘ということになってしまう。また、こうした見方は「なし」とするなら、つまり「語り手を信頼する」というルールには疑いを容れないとするなら、仮説の半分くらいがこの時点で消滅する。しかし、そうなると「あとがき」で書かれた、成り立ちうる「十とおりの仮説」には到底及ばない。そもそも、語り手が信頼できるかどうかというのは、それこそ作者が設定すべき小説の「審級」のはずで、そこまで読者に委ねるというのはいくらなんでも無茶である。
ということで、実験小説としては面白い試みだと思うが、推理小説としては正直なところ、納得がいかない作品であった。