自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2571冊目】吉田伸夫『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』

 

 

映画『TENET』があまりにワケわからなかったので、時間論の本でも読めば少しは理解が進むかと思ったのだが・・・甘かった。こちらはこちらで、よくわからない。とはいえ、わからないなりの「つかみ」はある程度できたような気がする。特に「時間は流れているのではなく、空間のように広がっているだけ」という意味は、少しだけだが自分の中に入ってきたように思う。

 

時間を考えるには、アインシュタイン相対性理論から始めなければならない。ここがたいへんハードルが高いのであるが、本書はアインシュタインの言った「静止と運動は原理的に区別できない」という主張を、いろんな例を使ってものすごくわかりやすく解説してくれている。中で個人的に腑に落ちたと感じたのは、世界地図のモルワイデ図法のたとえだった(厳密にいえばミンコフスキー幾何学の解説だが)。

 

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モルワイデ図法とは、楕円形の中に世界地図を描いたものだ。この地図では、中心に近いほど正確な形となり、端っこのエリアはゆがんで描かれる。日本を中心にすればアメリカの形がゆがみ、アメリカを中心とすれば日本がゆがむ。ここには絶対的な中心はなく、中心と端っこの総体的な関係ですべてが決まってくる。

 

相対性理論も同じようなもので、時間や空間のありようは人によって異なる。本書の例で言えば、地球上のアリスの時計を基準とすれば、宇宙船に乗って進んでいるボブの時計がずれていることになるが、ボブの時計が基準なら、今度はアリスの時計がずれていることになる。絶対的に正しい「時間」というものは存在せず、したがって「現在」というものも「ない」というのである。それどころか著者によれば、時間とはそもそも一方向に進むものではなく、本来は空間のようにただ広がっているだけだ、という。さて、どういうことか。

 

なんとなくつかめたところだけを、ピンポイントで辿っていく。すべての動きが止まり、完全な平衡状態となった宇宙では、そもそも時間というもの自体を観念できない。そして、すべての世界はこうした状態、すなわちエントロピーの最大化に向かって進んでいく。そのそもそもの要因は、ビッグバンという「きわめて整然とした状態」が最初にあったことにある。ところがすべての存在は「秩序から無秩序へ」「整然から混沌へ」と不可逆的に変化する(エントロピー増大の法則)。時間の流れと見えるものは、実は「ビッグバンから遠ざかる向き」「低エントロピーから高エントロピーへの移行」なのである。では、なぜそうした動きに逆らうようにして「生命」が出現したのか、という疑問が浮かんでくるが、その答えを知りたい方は本書をお読みください。

 

なるほど、時間とは本来空間のようなものだ、としよう。だったら、未来や過去へ移動する「タイムトラベル」もできるのだろうか。その場合、「過去の世界で自分の親を殺してしまう」というような「タイムパラドクス」は起きるのか?

 

この点については、著者は「ワームホール」なるものを利用して過去に戻ることができる可能性はあるという。では、タイムパラドクスについてはどうか。著者はここで「『物理現象は、時間の流れに従った順番で決まっていく』という原則など、もともと存在しない」(p.187)という、ギョッとするようなことを言う。言い換えれば、そのようなワームホールが存在するような宇宙があれば、そこはこの宇宙とは全然違う、時空の流れが入り乱れ、ブラックホールがたくさんあって、荒々しいエネルギー流が生じているような宇宙であろう、というのである。

 

なんだかうまくひっかけられたような気もするが、それはともかく「時間は流れていない」「時間は空間のように広がっている」という主張は、なかなか感覚的には受け入れがたいものがある。その理由について著者はこのように書いている。

「時間は物理的に流れるのではない。では、なぜ流れるように感じられるかというと、人間が時間経過を意識する際に、しばしば順序を入れ替えたり因果関係を捏造したりしながら、流れがあるかのように内容を再構成するからである」(p.198)

この第7章はこれまでと違い、認知科学や生理学のアプローチで人間の「時間の感じ方」に迫るものとなっている。そうなのだ。時間論がやっかいなのは、理屈ではそれが正しいと分かっていても、感覚的にその結論を受け入れられないというところにあるのだ(しかも、その「理屈」自体もたいへんむずかしい)。そう考えると、冒頭に挙げた『TENET』のような時間を扱った映画、あるいは時間を扱ったSF小説は、感覚的に受け入れがたいモノを受け入れるためのある種のトレーニングになっているのかもしれない。

 

まあ、それを言えば、そもそも『ドラえもん』が、タイムトラベルやタイムパラドクスを含め、時間に関するありったけの思考実験をぶち込んだようなマンガであった(そういえば映画『のび太の大魔境』のラストなんて、完全に「万物理論パラドクス」である。『TENET』の主人公も同じだが、なんといってもドラえもんのほうが40年早い!)。幼少期からそういうややこしい思考トレーニングを積んでいるから、われわれはワケがわからなくとも『TENET』のような映画を楽しめるのかもしれない。

 

 

Tenet

Tenet

 

 

 

映画ドラえもん のび太の大魔境
 

 

【2570冊目】借金玉『発達障害サバイバルガイド』

 

 

 

 

サバイバルガイドというと、なんだかジャングルにでも行くみたいだが、本書の舞台は普段の仕事や生活そのもの。だが、決して大げさなタイトルではない。発達障害の当事者にとって、この現代社会はある意味でジャングルそのものなのだ。本書は、そんなジャングル的現代社会での「がんばらない」「意識低い系」を徹底した一冊。発達障害当事者として「つまづきやすいポイント」を熟知した著者ならではの具体的なアドバイスがすばらしい。

 

著者のやり方はきわめてシンプルだ。食器が洗えず溜まってしまうなら、食洗器を買え。部屋が散らかるなら、定位置が決まっていないモノを一つの箱にぶっこめ。家計簿がつけられないなら、クレジットカードに支出を一元化せよ、等々。いっさいの努力を求めず、とことんまで「やり方」で解決しようとするスタンスには、感心を通り越して感動さえ覚える。

 

著者がこうしたアドバイスを行うのは、多くの発達障害の方々が「怠けている」「努力が足りない」などと言われ続け、自分でもそう思い続けてきたことの裏返しである。著者はこのように書いている。

 

「どうか『自分は怠けている』という結論に安住しないでください。できないことはできない、ないものはない。いつだってそこから始めていくしかないのです」(p.91)

 

そんなスタンスで書かれた本書は、実は「発達障害以外」の人にもとても役立つものとなっている。少なくとも私は(自分自身がやや発達障害傾向である、ということもあるけれど)、著者のアドバイスでかなり気持ちが楽になり、生活上のヒントをもらった。

 

たとえば、一日にやるべきことを一つの箱に突っ込んでおく「エブリデイボックス」。飲むべきクスリ、読みかけの本、払わなければならない請求書などを、一つの箱にまとめておくという、ただそれだけのライフハックなのだが、これだけで「やるべきことを忘れない」プレッシャーや「払い忘れ、やり忘れ」のミスから一挙に解放される。しかも必要なコストは、100円ショップでも買えそうな、中身の見える箱一つだけなのである。

 

あと、考え方で一番「刺さった」のが、「『休む』は意志の賜物、『頑張る』は惰性」という言葉(p.253)。とりわけ「頑張る」ことが礼讃されがちな職場では、この考え方はとても大事になってくる。多少疲れていたとしても、周りに気を遣って休むより、「頑張って」出勤してしまったほうが実はラクなのだ。だがこの「頑張るという惰性」の積み重ねが、私たちの身体や心を徐々に壊していく。さらに休みの日も、何かしら「有意義に」過ごそうとか、普段できなかったことをやろうとして予定を詰め込んでしまい、結局全然休めない、ということになってしまう。

 

だから「休むのは意志」なのである。月に2日は「完全に休む日」を設けることを著者は推奨する。この「『休む』は意志の賜物、『頑張る』は惰性」という言葉、職場の標語として貼り出しておきたい。

 

発達障害向けと言いつつ、多くの人に役立つという理由が、少しおわかりいただけただろうか。その意味で本書は、「ライフハックユニバーサルデザイン」的一冊なのである。読めば必ずや、しんどい人生が少しだけラクになりますよ。

【2569冊目】サマセット・モーム『雨・赤毛 他一篇』

 

 

こないだ『月と六ペンス』を読んでモームが気になったので、だいぶ前から持っているやつを引っ張り出してきた。1962年初版の岩波文庫版だが、どうやらすでに絶版らしい。「土人」「シナ」「あいのこ」などのタブーワードがガンガン出てくるあたりが時代を感じる。最近の翻訳ではどんなふうにしているのだろう。

 

「雨」を読み返して驚くのは、デイヴィッドスン夫妻を描くモームの「しつこさ」だ。南洋の島に暮らす人々に対して、宣教師として一方的にキリスト教のモラルを押しつける。どんなひどいことをしても動じることなく「私の心も血を流しているのです」とうそぶく。「善」や「正義」を振りかざす人間のもつたまらない醜悪さを、モームは徹底して描き出す。それが極点に達したところで急転直下となるわけだが、その肝心なところをモームは描かず「彼には一切がわかったのである」とだけ書く、そのうまさ。さすがは小説名人、語りの手練れとしかいいようがない。

 

赤毛」はオチも含めてなんとなく覚えていたが、やはりそこに至るまでの語りの妙というか、先の予想がついてもなお読者を引っ張っていって離さない力技にあらためて驚かされる。しかし、この作品はなんといっても次の「名言」だ。この言葉が軸になって、この短編小説は成立しているのである。

 

「愛の悲劇は死でもなければ別離でもない。(略)かつて自分が全身全霊をあげて愛した女、この女を見失ったら到底たえられないと思われた女、そういう当の女をながめながら、こんな女とは二度と逢わなくたって一向かまわないとさとるとすれば、何とも苦痛なことではあるまいか。愛の悲劇は無関心ということさ」(p.107)

 

「マキントッシ」については簡単に触れるだけにするが、これもやはりラストの転回が鮮やかだ。ウォーカー所長がどうとかいうより、人の見え方、人の評価というのは本当に見る人次第なのだなあ、と思わされる。だからこそ、人を見極めるのはむずかしい。ラストのやるせなさでは、三作中随一であろう。今はどこで読めるのか調べてみたら、ポプラ社の「百年文庫」第47巻「群」に、「マッキントッシュ」というタイトルで収録されている模様。マイナーだがなかなかの名品なので、機会があればぜひ一読を。

 

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

 

(047)群 (百年文庫)

(047)群 (百年文庫)

 

 

【2568冊目】山内一也『ウイルスの世紀』

 

 

数十年にわたりエマージングウイルスを研究してきた著者による「集大成」の一冊。そこに新型コロナウイルスパンデミックが重なったことは、思えばなんという偶然か。もちろんのこと、本書にも全5章のうち第3章がまるまる新型コロナウイルスに充てられている。

エマージングウイルスとは、新興感染症のこと。20世紀後半、今まで人類が遭遇したことのない新たなウイルスが続々とあらわれた(エマージングとは「出現」という意味である)。凶悪なエボラウイルス、ラッサ熱を引き起こすラッサウイルス、ニューヨークで突然出現したウエストナイルウイルス、そしてSARS、MERS、COVID-19などで世界を騒がせるコロナウイルスは、いずれもエマージングウイルスだ。

エマージングウイルスの特徴は、動物によって保有され、それがヒトに感染すること。そのため、ほとんど人間にしか感染しない天然痘と違って、根絶は難しい。そして、どの動物がウイルスを運んでいるかを突き止めるのは大変な作業となる。オーストラリアに出現したヘンドラウイルスは、800キロ離れた場所で、ほぼ同時にウマへの感染を引き起こした。これほどの距離、ウイルスを持ち運べるのは鳥かコウモリしかいない。はたして、ダーウィンからメルボルンにかけて生息するコウモリを調べたところ、ヘンドラウイルス抗体が見つかった。ちなみに、コウモリは動物の中でも突出した「ウイルスの貯蔵庫」だという。哺乳類でありながら翼をもち、遠距離を移動するうえ、洞窟などのせまい場所に密集するため、ウイルスが爆発的にひろがりやすいのだ。

特定がむずかしく、そのため対策が迷走することもある。マレーシアでニパウイルスが流行し、大量のブタが犠牲となったうえ、ヒトへの感染も確認されたケースでは、政府はこれを日本脳炎によるものと判断した。日本脳炎は蚊によって媒介されるため、殺虫剤を散布し、ブタに日本脳炎ワクチンを注射した。ところが、皮肉なことにこの対策がかえってウイルスを広げてしまった。ブタの移動制限をとらなかったため、ブタの移動とともにウイルスが拡散した上、ブタへのワクチン注射で注射器が使い回され、注射針を介して感染を広めてしまったのだ。ヘンドラウイルスに似た新たなウイルスであり、日本脳炎ウイルスとは異なるという指摘はなされていたが、マレーシア政府は日本脳炎という「初診」に固執してしまい、適切な対策が取れなかったのだ。ちなみにこのニパウイルスでも、最初にブタにウイルスを感染させたのはコウモリであった。

新型コロナウイルスについても触れなければならないだろう。コロナウイルスは大きく4つのグループ(α、β、γ、δ)に分けられ、それぞれの中に多くの種類が存在する。ヒトに感染するのはそのうち7種(αグループの2種、βグループの5種)。4つは風邪を引き起こすウイルスだが、βグループの5種のうち3種はSARS、MERS、そして今回のCOVID-19(新型コロナウイルス)である。このウイルスを体内に保有しているのは、やはりのこと、コウモリだ。

問題は、コロナウイルスは一本鎖RNAウイルスであり、変異が起きやすいことだ。2本鎖DNAであれば変異が起きてももう一本の鎖が相補的に存在するため修復されやすいが、RNAだとそうした「コピーミス防止機能」が働かない。もっとも、コロナウイルスは不思議なことに、nspl4酵素という独自の修復システムを持っており、そのため、例えばインフルエンザウイルスのような頻繁な変異が起きるわけではないらしい。

コロナウイルスは、どのようにしてヒトに感染するのか。よくいわれているように、SARSやMERSと同様、そこには動物が介在している。SARSではコウモリからハクビシンを介し、MERSではコウモリからラクダを介してヒトに感染した。COVID-19では、疑わしいのはセンザンコウとされている。コウモリのもつRaTG13ウイルスがセンザンコウに感染し、そのときにセンザンコウのウイルスが組み込まれ、ヒトへの感染性を獲得したらしいのだ。中国ではセンザンコウは食用とされ、鱗は漢方薬に使われる。ちなみにマレーセンザンコウ絶滅危惧種であり、密輸されたものではないかと言われているようである。

なかなか厄介な話である。ハクビシンセンザンコウが売買される中国の状況にも問題はあるが、そもそも現代では、ほとんど国・地域を問わず、野生動物の生息地域にヒトが入りこみやすい状況が出来上がってしまっている。そうした状況では、動物が保有するウイルスを「もらって」しまうことは避けられないようにおもわれる。だからこそ21世紀は「ウイルスの世紀」なのだ。著者は言う。

新型コロナウイルスは、二十一世紀がウイルスとの共生の道をさぐる時代に入ったことを、われわれに見せつけているのである」(p.232)

【2567冊目】吉野裕子『ダルマの民俗学』

 

ダルマの民俗学―陰陽五行から解く (岩波新書)

ダルマの民俗学―陰陽五行から解く (岩波新書)

  • 作者:吉野 裕子
  • 発売日: 1995/02/20
  • メディア: 新書
 

 

ダルマといえば知らない人はいない、赤くてギョロ目のあの物体だ。そのモデルが禅の始祖、達磨大師であることはよく知られているが、では、なぜかつて実在した人物が、あのような形の「ダルマ」として親しまれるようになったのか。本書はその謎を「陰陽五行説」を補助線に解き明かす一冊だ。

 

本書の前半ほぼ三分の一は、この陰陽五行説の解説に割かれている。有名な十干十二支をはじめ、年や月、日といった暦から方位や色に至るまで、陰陽五行があらゆる領域に影響を及ぼしていることがよくわかる。ちなみに「土用の丑の日」にウナギを食べる理由についても、著者は陰陽五行説と結びつけており、「丑の日だから本来は牛を食べるべきだが、牛食はタブーだから同じ「ウ」のつくウナギを食べることになった」という説明がなされている。

 

それはともかく、ダルマである。ダルマの特徴である「赤い色」「大きな目」「おにぎりのような形状」そして達磨大師の「南インドという出自」は、陰陽五行でいえばいずれも「火」に通じるという。一方、仏教においても宇宙の根源的要素を地大、水大、火大、風大の四大と呼ぶ。特に「火大」を具象化したキャラクターである「火天」の特徴は、五行の「火」といろいろ重なり合っているらしい(もともと「火」という要素が共通なのだから当然だが)。いずれにせよ、ダルマのルーツは中国の陰陽五行にある、というのが著者の主張である。

 

本書はダルマに限らず、さまざまなものをこの陰陽五行で読み解いていく。面白いのは「凧」=「紙鳶(いかのぼり)」もまた、五行の「火」と重なり合う、というくだり。ダルマと比べても意外な組み合わせだが、まあ、この著者は以前読んだ『蛇』でもこの世のすべては蛇に由来する、と言わんばかりの勢いであったので、すべて真に受ける必要はないだろう。むしろ、さまざまなモノにひそむイメージのルーツを辿るための方法のひとつとして、その飛翔ぶりを楽しむのがよい。正解かどうかが問題なのではなく、イメージの根っこをしっかりとおさえつつ、そこからどれほど自在に「飛べる」かが大事なのだから。