自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2563冊目】デイヴィッド・ベインブリッジ『中年の新たなる物語』

 

 

 

中年って何だろう。

私やあなたは「中年」だろうか?

 

少なくとも、こんなタイトルの本を手に取って読んでしまった私は、まぎれもなく「中年」だ。年齢も40代後半だし。では、「あなた」はどうだろうか。

 

試しに、本書の目次からいくつかピックアップしてみよう。「たるみ、しわ、白髪ができる理由」「なぜ起こる中年太り」「『現役感』を保つ方法」「なぜオヤジは若い娘に手を出すのか」「中年で出産してもよいか?」「中年の恋愛」……。ひとつでも、ドキッとしたり、ついつい読んでみたくなったなら、たぶんあなたも「中年」だ。

 

中年にはあまり良いイメージがない。だいたい「中年」という設定自体が、中途半端でどっちつかずの印象を受ける。それはさておいても、「たるみ」「しわ」「白髪」が出てくるのは中年期だ。加えて老眼やら加齢臭やらに悩まされ、自分の「先」がある程度見えてきて、夢や希望が現実に置き換わっていく。『俺はまだ本気出してないだけ』というマンガで、(正確なセリフは忘れてしまったが)主人公の「中年男性」大黒シズオが「俺にとって『将来』って、今じゃん」と気づくシーンがあるが、中年とは「将来」だったはずの人生が、いつの間にか「今」になっている年代なのである。ちなみにあのマンガが刺さるとしたら、立派な中年である証拠。

 

そういうワケで、冴えないイメージ満載の「中年」であるが、本書はそれに真っ向から異を唱える。ある程度の体力に加え、経験による知の蓄積のある中年男性は、狩猟採集時代は最強の食糧収集者であった。現代に置き換えれば、体力的にはいささか盛りを過ぎてはいるが、人生のうち知的能力がピークに達するのは中年である。すべての世代の中でもっとも生活安定感が高く、確かに「見てくれ」は多少悪くなるが、それを補うだけの経験知と財力がある。だいたい、すべての動物の中で「中年期」があるのは人間だけなのだ。進化論に照らして言えば、中年期が無意味な時期であれば、人間だけがそれを持っている理由がない(ちなみにもうひとつ、人間だけが持っている時期がある。「思春期」である)。

 

そういうわけで、本書は科学的なエビデンスに基づく「中年礼讃」の一冊である。ただし、気を付けなければいけないのは、中年といっても送っている人生は多様であるということだ。確かに、家族をもち、自分や配偶者が組織の中でそれなりのポジションに上りつめ、比較的裕福な人が他の世代より多いのが中年期の特徴だ。しかし、わが国で言えば、その中年期を迎えている世代が社会に出たのは就職氷河期であった。非正規雇用で若者とほとんど変わらない収入しか得られず、そのため結婚もできず子どももない、さらに(中年期の魅力の中核となる)豊富な経験をしっかり積んできていない中年が、今の日本には少なくない。かつて中年の悩みと言えば「職場で上下の板挟みとなるストレス」や「反抗期の子どもへの対応の仕方」や「冷え切った夫婦関係」などであったものだが、今やそうした悩みは、ある種の贅沢病になってしまっているように思う。

 

本書によれば、中年は人生のピークであるという。若者にとっては自分が到達すべき将来像であり、老人にとっては「自分の人生は何だったのか」と振り返る時の基準点となる。ところが、現代のわが国の中年の多くが、そうした「人生のピーク」を謳歌する機会から排除されてしまっているのである。このことが今後、どういう影響を社会や個人にもたらすのか、考えてみるとなかなか空恐ろしいものがある。

 

 

 

【2562冊目】中島岳志『親鸞と日本主義』

 

親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

  • 作者:中島岳志
  • 発売日: 2017/08/25
  • メディア: 単行本
 

 

「他力本願」「悪人正機」で知られ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると説いた親鸞。その教えが戦前の皇国史観と結びついたというのはなんとも意外だが、本書を読めば、その異様なつながりが見えてくる。それは、単なる「教団の時流への迎合」ではない。むしろ著者は「親鸞の思想そのもののなかに、全体主義的な日本主義と結びつきやすい構造的要因があるのではないか」(p.27)と言う。本書はその道筋をさまざまな角度から辿り、日本ファシズム浄土真宗の意外な重なり合いを実証する一冊だ。

 

確かに「他力」という思想は、世の中を批判したり改造したりせず、あるがままに受容せよ、という主張に結びつく。それはまさに「天皇の大御心」に身も心も委ねるということであり、「原理日本」そのものに没入せよということである。そこでは、理想的な社会を作り上げようというリベラル的な発想は「自力」によるものであり、したがって否定されるべきものとなる。むしろ、彼らにとっての天皇とは、日本にとっての本来であり、無批判に、全面的に受容すべきものであった。そうした反知性的で情緒的な日本ファシズムに、親鸞の思想はヘンな形でぴったりと合ってしまったのだ。

 

たとえば歌人でもあった三井甲之は、個人意志を総体意志=日本意志に委ねることを訴え、「南無阿弥陀仏」を「南無日本」「祖国日本」と読み替えた。蓑田胸喜も「天皇の大御心」に包まれた日本への「絶対肯定」「絶対他力」を訴え、『出家とその弟子』がベストセラーになった倉田百三は「すべての主体が『弥陀の本願』と一致する世界」すなわち「天皇に準拠した世界」の確立を目指した。亀井勝一郎もまた、国学親鸞思想を重ね合わせ、「はからい」「自力」「私」を捨ててすべてを大御心に委ねる「絶対他力」の実現を謳った(ところが亀井は戦後になると、一転して「敗戦の自覚とは……罪の自覚でなければならない」と言ったらしい)。暁烏敏は「私共は仏の顕現として天皇陛下を仰ぎまつる」と語り、自分の意見を持つことは自力の道であってそのような計らいは捨てるべし、兵士となって天皇の「仰せ」にしたがい命を捧げることこそ「弥陀の本願」に適うことだと訴えたのみならず「日本は阿弥陀仏の浄土なり」とまで断じた。

 

ここまでくると、すでに仏教とは別の何かになっているとしか思えないが、それでもこうした主張は真宗大谷派のトップクラスの中で大真面目に論じられたのであり、その結果、彼らは戦時協力を決めたのだ。そこにあったのは、単なる信仰の放棄ではなかった。むしろ親鸞の教え自体に、かかる国体論、天皇中心の日本ファシズムと共鳴する部分が間違いなく存在したのである。

 

実は著者自身、若い頃に親鸞思想に傾倒し、そこから保守思想を読み解こうとしていたという。だからこそ、保守を飛び越えて戦前日本の極端なナショナリズムファシズム親鸞思想が転化してしまったことに、大きな衝撃と問題意識をもったのだろう。本書はそんな著者自身の切実さから発しているだけに、「日本主義」の意外なルーツのひとつをあきらかにする、大変スリリングで読み応えのある一冊だ。

 

【2561冊目】蔭山宏『カール・シュミット』

 

 

新型コロナウイルスをめぐっては、これまで見られなかったような形で、国や自治体のトップの「決断」が注目された。日常とかけ離れた環境で、確たるデータも明確な予測も皆無な中で、それでも何かを決めなければならないという状況は、それぞれのリーダーの力量を恐ろしいほどはっきりと映し出してしまう。まさにカール・シュミットのいう「例外状況」が目の前に出現した瞬間であった。

 

政治における例外とは「現行の法秩序が停止される状況」「時には人びとの生死が賭けられている状況」(p.18)を言う。既存の法律を適用するだけでは対応できないという意味では、今回の新型コロナウイルス禍はまさしく「例外状況」であったといえるだろう。シュミットはまさにこうした例外状況から政治を捉えようとした。

 

「常態はなにひとつ証明せず、例外がすべてを証明する」「主権者とは、例外状況に関して決定(決断)を下す者をいう」とは、いずれもシュミットの言葉である。つまりシュミット的観点から言えば、今回のような事態において国や自治体のトップの姿勢や力量が明確にあらわれてしまうのは、むしろ必然であったということになる。

 

本書はカール・シュミットの思想の内容とその変遷をコンパクトにまとめた一冊だ。コロナについてはあとがきでちらりと触れられている程度だが、「例外状況」をめぐる考察はまさにタイムリーで、今回のコロナ騒動を読み解くにもぴったりだ。一方、ナチズムへの傾倒や晩年の「変節」に対する厳しい批判もみられ、単なる礼讃だけではないバランスの取れたシュミット論になっている。

 

シュミット思想の内容はきわめて広範であるが、それは別として本書を読んで感じたのは、その思想の剛直さに比べた、一人の人間としてのシュミットの「小ささ」であった。ナチスに糾弾されそうになるとあからさまにナチス側にすり寄り、戦後になると自己正当化やドイツの正当化に走り、アメリカやソ連を批判しつつ自国に都合の悪い部分には目をつぶる。まあ、学者が人間として立派であるかどうかは別問題なのだから(みんながフランクルみたいになれるわけではない)、あまり気にする必要はないのかもしれないが、その主張との落差には、やはり軽い失望を感じてしまう。

 

読んでいて思ったのは、シュミットは誰よりも「不安定」をおそれていたのではないか、ということだ。じっさい、本書の終盤で、著者はこのように指摘する。

「シュミットは政治的秩序の崩壊を何よりも恐れる思想家であり、それを回避できるのが主権者の断固たる決断だった。このような論理構成のゆえに、かれの議論においては、何のための決断かよりも決断それ自体が重視されることになり、カール・レーヴィット丸山眞男の批判もここに向けられている。決断主義者シュミットという呼称はかれの政治思想の核心をついている」(p.247-8)

 

独裁や「強いリーダー」を待望する声は、いつの世にも存在する。だが問題は、そうした「強いリーダー」がどんな決断を下すか、ということであろう。議会は、議論や投票というプロセスを通じて、決断の正しさを担保する機関であると考えられるが、シュミットの考え方によれば、それは「真理というものが他の意見との関連で他律的に決定されることを承認し、みずから正しいと思うことを議会において実現することを最終的に断念することにほかならない」(p.69-70)。

 

この考え方があやういのは、どこかに「客観的に正しい決断=真理」が存在することが暗黙の前提になっている点である。そして多くの人にとっては、「自分が正しいと判断したこと」がそのまま「正しい決断」なのだ。だから人々は、強いリーダーを期待する。しかしそれは、リーダーが自分と同じ決断をしてくれると思っているからであり、さらには、リーダーの決断に自分の価値観を依存させていくからなのではないか。自分の意見と違うから支持しない、という選択は、そこにはない。

 

シュミット思想の最大の問題点は、「答えのない状況に耐える」ことこそがもっとも現実的で、実はもっとも有効な「危機への対処法」なのだ、という認識を欠いていることであるように思われる。そして、実際に世の中で起きている多くの問題を解決しているのは、誰かさんのような威勢の良い「リーダーシップ」ではなく、答えのない状況の中で数限りない試行錯誤を繰り返し、思考と実践を重ねている現場の名もなき人々なのである。

【2560冊目】ピエール・ルメートル『監禁面接』

 

監禁面接

監禁面接

 

 

企業の人事部長まで務めたアラン。50代でリストラされ、再就職の望みもかなわないまま、はや4年。アルバイトで食いつなぎつつエントリーした一流企業で、思いがけず最終試験に残る。だが、その内容はとんでもないものだった。指示されたミッションは「就職先企業の重役会議を襲撃せよ」……

 

前代未聞の「再就職サスペンス」。一歩間違えばとんでもないバカミスになりかねない題材だが、それが迫真のサスペンスになっているのは、50代で職を失ったアランの心情、家族との関係、アルバイト先でのトラブル等を丁寧に描き、ムチャクチャな「課題」に応じざるを得ないところまで時間をかけて追い込んでいるからだ(このあたりの「意地の悪さ」はさすがルメートルである)。

 

だが、そこからは急転直下。予想もつかない展開が次から次へとやってきて、とてもじゃないけど読むのをやめられなくなる。これは海外ドラマ向け(「次回に続く」の瞬間、ゼッタイに先を観たくなる)だと思っていたらやはりのこと、すでにNETFLIXが全6話でドラマ化していた。さすがの嗅覚である。

 

それほどまでに、最初から最後まで、一切の先読みを次々と裏切っていくプロットの妙がたまらない。そして、もうひとつ本書の「読みどころ」となっているのが、富める者はいよいよ富み、貧しいものはいよいよ貧しくなる圧倒的な格差社会の残酷さである(どうやらフランスも例外ではないらしい)。最底辺からの一発逆転を狙ったアランは、それによって、一番大事なものを失ってしまう。そのことは最初からあからさまに示されているのだが、アランがそれに気づくのは、すべてを手に入れたかに見えた本書のラストなのである。

 

だが、アランと共に、アランの視点でこの小説を読んできたすべての読者は、彼にはそうするしかなかったことがすでにわかっているのだ。相次ぐどんでん返しの中に散らした中年の悲哀のスパイスの切なさがたまらない、絶妙のサスペンス。ドラマもぜひ見てみたい。

【2559冊目】本田秀夫『発達障害』

 

 

発達障害と一口に言っても、自閉スペクトラム(ASD)や注意欠如・多動症ADHD)などさまざまなタイプがある。そうした様々なタイプの「重複」がテーマである、と「はじめに」に書かれているので、やや専門的な内容かと思っていたが、読み終えた時点での印象としては、発達障害に関する基本的な事柄をていねいに取り上げた一冊。ASDやADHDなどがもつ特徴についても、しっかり解説されている。

 

そもそもこうした重複の存在を著者が強調せざるを得なかったのは、発達障害の診断や支援の現場で、個々の類型にあてはめて対象者を理解するといった対応が行われていることが多いためと思われる。もちろん、そのこと自体は相手を理解するための「手すり」として必要だ。しかし、それが行き過ぎると、かえって相手の特性を見誤り、支援がうまくいかないといったことになりかねない。そこで、複数の類型の「重複」といった考え方、捉え方を補助線として引く必要が出てくる。

 

本書の前半は、こうした「重複の事例」の解説がメインだが、一方後半では、発達障害の特性に応じた「環境調整」の方法や、当事者自らができる発想の転換のパターンを数多く紹介している。こちらもたいへん重要な内容だ。

 

まずすべての基本となるのは、「苦手な能力の底上げより、その部分を補完する方法を考える」ことである。著者はここで「黒板を釘でひっかくような音」を例に挙げる。「黒板を釘でひっかく音が苦手? だったら、何度も聞くことで克服しましょう!」と言われたら、あなたならどう感じるだろうか。発達障害の人にとっての「苦手」とは、実はこのくらい克服が難しい、生まれつきの特性なのだという。

 

だったら「苦手な部分を補完する」にはどうすればよいか。ひとつのポイントは、その特性をそのまま「強み」として捉えて活かす方法を考えることだ。たとえば、不注意でミスをしても気に病むことがなく、ミスを繰り返してしまう人は、「うまくいかなくてもへこたれない」という強みをもっているとも言えるだろう。そのため、営業職などに就けば、商談を断られてもめげずに次の相手に挑戦することができるかもしれない。もちろん事務上のミスは避けられないだろうが、「自分はミスが多い」ことをあらかじめ周囲に伝えればある程度はカバーできる可能性がある。その上で、へこたれずめげないという「得意分野」を活かして貢献することを考えればよい。

 

あるいは、興味の対象がすぐに目移りしてしまい落ち着きがないという人はどうか。これを長所として捉えれば「思い立ったらすぐに行動に移せる」「行動力やアイディアが豊富」ともいえるだろう。そのため、新たな企画や事業を立案する部署なら活躍できるかもしれない。もちろん、ある程度形になったら、別の人に引き継いで完成してもらえばいいのである。

 

そううまくいく事例ばかりではないだろうが、大事なのはこうした柔軟な考え方を、当人だけでなく周囲の人たち(特に人事系の人たち)がもつこと、そして多様性を大事にすることだ。だからこそ、著者は発達の特性を「なんらかの機能の欠損としてとらえるのではなく、『〜よりも〜を優先する』という『選好性(preference)の偏りとしてとらえたほうが自然なのではないか」(p.212)と指摘するのである。

 

こうした選好性を持つ人は、確かに全体からすれば少数だろう。だが、そうした少数派のためになんらかの配慮ができる社会、個性のデコボコが当たり前に存在する社会のほうが、実は多くの人にとっても生きやすいのではないか。発達障害の人たちによって試されているのは、ひょっとするとわれわれの社会そのものなのかもしれない。