自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2381冊目】ユーディト・W・タシュラー『国語教師』

 

国語教師

国語教師

 

 

事実とは何か。物語とは何か。真実とは何か。事実よりも物語の方が真実を語ることがあるとすれば、それはどういう時だろうか。

作家のクザヴァーと国語教師のマティルダ。熱愛とすれ違いの末、クザヴァーが黙ってマティルダのもとを去ってから16年。クザヴァーは、マティルダの勤める学校にワークショップの講師として派遣されることになる。

また会いたいと訴えるクザヴァー。過去の仕打ちを責めるマティルダ。微妙なすれ違いを重ねるメールのやり取りから始まるこの小説は、だが単なる「男女の再会物語」ではない。二人の両親や生まれ育ちのこと、別れた後にクザヴァーを襲った悲劇のこと、そして二人が互いに語る「物語」が次々に差し挟まれる。

普通、こういう小説を読むとなにがなんだか分からなくなって混乱するのだが、本書は不思議とそうならない。むしろ場面が過去に飛んだり、一方の語る物語の中に入っていくたびに、それまで分からなかったこと、見えなかったことが徐々に明かされていく。キーになるのは、マティルダと別れた後に結婚したクザヴァーが、1歳半の息子ヤーコプを「誘拐された」事件なのだが、どうにもきな臭く嫌な予感しかしないこの事件の真相は、なかなか明らかにされない。

本書の醍醐味は、二人が互いに向けて語る物語。そこには二人の間に今なお横たわる「真実」が、どんな事実よりも見事に描き出されている。そしてついに、物語は、一方が秘めていた事実そのものまでも言い当ててしまうのだ。ドイツのミステリ賞を受賞した作品とのことだが、ミステリの枠を超えたなかなかの秀作長編であった。

【2380冊目】高山なおみ『諸国空想料理店』

 

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

諸国空想料理店 (ちくま文庫)

 

 

インスタグラムからの転載。

料理エッセイの名手、高山なおみの第一作。かつて吉祥寺に実在した「諸国空想料理店KuuKuu」の店内フリーペーパーに、当時この店で料理を作っていた著者がエッセイを書いたものがもとになっている。というか、そもそもこのフリーペーパーのエッセイが担当編集社の目にとまったことがきっかけで、高山なおみはデビューしたのである。

本書の面白さはその臨場感というか、ライブ感。その日のイベントやお客や気分によって、様々な国の料理(といっても「空想」だから、正確さよりそれっぽさが大事)のレシピや組み合わせを考え、実際に料理し、盛り付ける。その範囲は奄美大島、韓国、インド、ペルー、アフリカと幅広い。

シチュエーション別の料理もおもしろい。失恋したときは自家製ラー油で下品に餃子。恋人とはベッドの中でアイスクリーム。夜遅くにはなんと唐辛子を使ったメキシコ風ココア。料理とは人間の生活であり、人生であり、しかもそこから自由で、奔放で、途方もなく楽しいものなのだ。

「まな板なんかなくっても、包丁が少々切れなくても、狭い台所でもおいしいものは作れるはずじゃあないかと信じている/大事なのは、食べたい意欲の満ちあふれている食卓のために料理するということ/(略)おいしくないものなんかこの世にないとまで思っている」(p.194)

 

【2379冊目】美輪明宏『愛と美の法則』

 

愛と美の法則

愛と美の法則

 

 

「この世の中には、愛と美さえあればそれだけで充分なのです」(p.2)

 

一行目から展開される絢爛豪華の美輪ワールド。竹久夢二高畠華宵蕗谷虹児中原淳一(ひとつでも知らない名前があったら、即刻ググるべし)。三島由紀夫寺山修司との親交。そしてエディット・ピアフへの傾倒。美しいもの、良いもの、愛すべきものとはどんなものかを知りたければ、美輪明宏を入口にすべし。

着物から浮世絵まで、華やかな美に満ちていた江戸時代。西洋文化との融合を経て、新たな文化が花開いた大正から戦前の時代。戦後の焼け跡から新たな美を生み出した人々の戦い。そんな時代を経て、しかし、なぜ現代の日本にはこれほどまでに、生活の中に心躍る「美」が失われてしまったのか。

そうした著者の嘆きには、単に「昔はよかった」というだけではない、時代を超えた美学と信念を感じる。華やかなシャンソン歌手から転じて貧しい人々の生活を歌った「ヨイトマケの歌」を生み出した著者は、民放では放送禁止歌となり(なぜかNHKだけは大丈夫だったらしい)、多くの批評家や文化人からもバッシングされたが、それでもこの歌を歌い続けた。シャンソン歌手のほうが儲かるに決まっている。だが著者は、自分が大事だと思うこと、歌うべきだと思うことのほうに賭けたのだ。そして出会ったのが、貧困と差別に苦しみ続けた多くの女性たちからの、感謝の言葉と涙だったのだ。

著者自身も女装や同性愛というマイノリティに属し、それゆえの差別も苦しみもあった。周囲にも、親族によって無理やり結婚させられそうになって首をくくった人、占領期に米兵との間に子供が生まれ、そのことを責められ自殺した人、部落差別にさらされてやはり自殺した人がいた。今でもLGBTなどと言われて一見認められたように見えるが、差別も偏見も何もなくなってはいない。著者がかつて思ったという次の言葉は、残念ながら、今でも十分に通用する。

「男も人間なら女も人間。だとすれば、男が女を愛しても、女が男を愛しても、男が男を愛しても、女が女を愛しても、人間が人間を愛しているという図式に変わりがない。それなのに、自分たちと性癖や好みや趣味が違うというだけで、人を蔑視したり差別する。これは傲慢以外のなにものでもない。まるでファシズムです。独裁者です。自分と主義主張が違う、好みが違う、器量や年齢が違う、国籍が違う。だから葬ってしまえという。これは無知蒙昧な独裁者がやることです。こんなことが戦後の民主主義の世の中にまかり通ってなるものか。これは絶対に戦うべきだと思ったのです」(p.248)

 

 

思えば美輪明宏が、その「美学」とは真逆とも思えるテレビのバラエティ番組に出続けているのも、この「戦い」の一環なのかもしれない。そして、冒頭の「この世の中には、愛と美さえあればそれだけで充分」というフレーズは、一見するとうわついた一輪の花みたいなものと見えるかもしれないが、その根っこにはこうした思いが深く伸びているのである。だから美輪明宏の発する言葉は、それがバラエティ番組のコメントであっても、他の連中とは全然違うのだ。

【2378冊目】森鷗外『阿部一族・舞姫』

  

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

 

 インスタグラムからの転載。


森鷗外という作家の幅の広さを感じさせる一冊。文語調で格調高いロマンスがあっと愕く悲劇に至る「舞姫」からシリアスな時代もの「阿部一族」、どこか漱石を思わせるユーモラスな「鶏」に圧倒的な突き抜け方で異彩を放つ「寒山拾得」と、鷗外が案外全方位型の作家であったことが再認識できる。

中で傑作を挙げるならやはり「阿部一族」であろう。殉死を許されず、一方で「死なないでいること」を責められるダブルバインド。そこから抜け出すには、城にたてこもって一族ともに自害するという方法しか残されていない。生きるか死ぬか、ではない。あるべき道を貫けない、その辛さをここまで突き詰めた作家が他にいただろうか。

 

 

 

 

【2377冊目】奥野修司『ゆかいな認知症』

 

 

昨日に引き続き高齢者関係の本、と思われるかもしれないが、実は本書に出てくる当事者は、ほとんどが「若年性認知症」。老齢の認知症の当事者を想定して読むと、やや肩透かしに遭うのでご注意を。次に、サブタイトルが「「介護」を「快護」に変える人」とあるが、介護法の本ではない。その点も、あまり期待して読まない方がよい。

むしろ本書は、若年性認知症について知りたい人、なんとなく興味がある人が手に取ると面白い。認知症という言葉から連想される暗いイメージがどんどん変わってくるだろう。だが、本来もっとも本書を手に取るべきは、厚生労働省の官僚や自治体で高齢者福祉に携わる人をはじめ、地域包括やケアマネなどの支援者ではないかと思う。

というのも、本書では高齢者福祉の世界ではめったにお目にかかれない「顔の見える当事者」がたくさん登場するからだ(若年性認知症が多いので、厳密に「高齢者」ではないが)。障害者福祉の世界では、障害者運動の現場で声を上げてきた「有名な障害者」が多く、最近は当事者研究の分野でも、障害者自らが名前を出して発信する。だが、認知症をめぐってはそういう人がなかなか出てこなかった。認知症当事者としての発信力は、障害分野に比べると格段に弱いと言わざるを得ない。

本書はその点、新たな可能性を感じさせてくれた。著者が以前共著を出している丹野智文さんをはじめ、その丹野さんに影響を与えたという竹内裕さん、「人に頼る名人」であり空間失認のある山田真由美さん、当事者の立場から認知症カフェを運営する福田人志さんなど、認知症界の「スター」になりうる人がたくさん登場する。願わくば若年性認知症以外の高齢者からも発信が欲しいところなのだが・・・。

彼らの存在が貴重なのは、なんといっても介護者や家族ではなく「当事者」の目線からの発言が得られるからだ。例えば丹野さんは「できることを奪わないでください」という。「時間はかかるかもしれませんが、待ってあげて下さい。一回できなくても、次はできると信じてあげて下さい」(p.30)と。

一方、認知症カフェについて「気遣いが多すぎる」(p.90)と言うのは曽根勝さん夫妻。「あんなとこは二度と行かん。コーヒーを飲むんやったら普通の喫茶店でええやないか」。自ら認知症カフェを開いた福田さんも言う。認知症になってお茶を飲みたいと言ったら、あそこに認知症カフェができたからそこに行きなさい、あそこだったら安心です、と言われるんです。でも僕は普通にスターバックスに行きたい。いっぱい喫茶店があるのに、なぜそこしかないんですか」(p.244)

高齢福祉のサービスの多くは「非・高齢者」によってつくられてきた。そこが障害者福祉とは決定的に違う。だが若年性認知症当事者の登場で、ついに「当事者が考え、当事者が作る」サービスや場所が生まれてきたようなのだ。これは画期的なことではないか。もちろん「若年性」の当事者と認知症高齢者ではニーズも違うかもしれないが、まずは自ら発信し、行動する認知症当事者たちの登場が、新たな可能性を開きつつあることをよろこびたい。