自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2309冊目】ジェニファー・ダウドナ『CRISPR』

 

CRISPR (クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

 

 

タイトルは「クリスパー」と読む。もともとはこれ、遺伝子の配列の中に繰り返し出てくる「回文」構造のこと。これ自体は、ゲノムがもっているある種の免疫システムなのだが、著者はこの仕組みを応用して、とんでもない技術を発見した。

遺伝子編集。膨大な遺伝情報の中から、好きな部分を抜き出し、別の配列と置き換えることのできる魔法の技術である。これまで行われてきた遺伝子組換え技術は、長時間にわたり試行錯誤を重ねる必要があった。ところがこのCRISPRは、高校生でもできるような簡単な技術で、ヒトゲノム32億文字のうちたった1文字だけを入れ替えることもできるのだ。

これで何ができるか、想像がつくだろうか。角の生えない牛。マラリアを媒介しない蚊。何か月も腐らないトマト。筋肉隆々のイヌ。それだけではない。ヒトに移植可能な臓器をもったブタを作り、臓器移植に備えることもできるし、ハンチントン病などの遺伝病を除去することもできる。ロンドンに住む1歳の子どもは、白血病に苦しみ、死を待つしかないと言われてきた。ところが一定の操作を施したT細胞を注入された結果、数カ月で病気が治ってしまったのだ。

夢の技術だ、と思われるだろうか。本書の著者も最初はそう思っていたらしい。だが、少し考えればわかることだが、筋肉ムキムキのイヌを生み出せるなら、筋肉ムキムキの人間を生み出すことだって可能なはずだ。これから生まれる子供の遺伝子をより優秀に変えることもできるし、生殖機能を制限することで、一定の種すべてを絶滅に追いやることもできる。細菌を強力な病原菌に変えて生物兵器にすることもできるのだ。ひとつの技術の「可能性」と「危険性」の両極が、これほどはっきりと示されることはめずらしい。

本書は前半が著者自身のCRISPRによる「遺伝子編集技術」誕生のヒストリーを、後半はCRISPRに関する社会への意識喚起や議論の呼びかけといった、科学者から社会全体に向けた活動を描いている。核兵器を生んだオッペンハイマーの轍を踏まない、と著者は言う。だが、新たな技術を発明した人類が、倫理的・道徳的判断でその技術を使わずに済むものだろうか。パンドラの箱はすでに開いてしまったのだ。

【2308冊目】桐野夏生『路上のX』

 

路上のX

路上のX

 

 

恵まれた家庭に育ったが、高校進学直前に両親が突然いなくなった真由。幼少期から再婚を繰り返す母親と暮らし、義父からレイプされたリオナ。渋谷の街をさまよう少女たちのリアルを描いた小説だ。

たぶんこういう現実を、知らない人は本当に知らないんだろうなあ、と読んでいて思った。JKビジネスみたいな、マスコミに面白おかしく取り上げられるネタの裏側にどんな暗部が広がっていることか。それを知るためには、一人一人の少女に寄り添い、その半生を知らなければならないのだが、それができないからこそ、勝手気ままな言説が世を流れる。

その意味では、一つのリアルの断面を切り取ったであろうこういう小説が刊行されることには価値がある。それになんといっても、少女の目線から徹底的に断罪される、大人の身勝手さと偽善性の醜悪さよ。少女をモノとしてしか見ない男たちが最低であることは言うまでもないが、警察や児童相談所の職員までもが、分かったような顔をして規制の制度に押し込むだけの存在として描かれている。もっともこのあたりは、少女たちの描写が複雑で奥行きがあるのに比べると、いささか浅薄でステレオタイプな描写にとどまっている。

そのあたりのバランスとも関係するのかもしれないが、本書のラスト、リオナや真由が選んだ道が気になった。確かに、小説としては見事に完結してはいるが、本当にそれしかなかったのだろうか。しょせんは現実ってそんなもの、なのだろうか。

【2307冊目】澁谷智子『ヤングケアラー』

 

 

ヤングケアラーとは、家族の介護を担う18歳未満の子どもをいう。え、そんな子がいるの? と思われたかもしれないが、福祉の現場に身を置いていると、けっこういるのである。精神疾患の親に代わり認知症の祖母を介護する中学生、肢体不自由の父親に代わり買い物や料理をする小学生、知的障害の姉と共に母の帰りを待つ高校生。そういう家庭にはなるべくサービスを入れるようにするのであるが、なかなか難しい家庭も多く、うまくいかないこともある。まあ、これは私の知る範囲の話。

本書はそんなヤングケアラーの実態をまとめた一冊だ。先進的な取り組みを行う南魚沼市藤沢市、国ぐるみで課題解決に取り組んでいるイギリスなどの事例を踏まえつつ、あくまでケアを担う子どもにフォーカスし、その実情をかなり深いところまで掘り下げている。

南魚沼市の研修会で提示された「子どもがケアを担うことに対して、どのような態度で関わることが正しい姿だと思いますか?」との問いに対する答えが印象的。回答者は次の3つの選択肢を提示したという。あなたなら、どれを選ぶべきだと思いますか?

 

(1) 子どもがケアを担わないよう、家族・地域に働きかける。
(2) 子どもがケアを担えるように、教育する・能力を伸ばす。
(3) 子どもがケアを担うことから逃げるように働きかける。

 

 

 

(1)は理想的だが、それができないから子どもに負担がかかっている、というケースも多い。(2)を主張する人は、ケアも人生経験のひとつとして必要だと思っているのかもしれないが、そのため学校に行けなかったり夜寝られなかったりすると、その子の人生自体がケアに喰われてしまう。(3)は、本書では「一時的に離れる機会を作る」という意味合いで紹介されているが、個人的には、実際に逃げてしまう/逃がしてしまうのも一手なのではないかと思う。本書のどこかに書いてあったが、ケアサービスを入れる際には、その子どもが「いない」前提で入れていくことが必要だ。

藤沢市の事例では「これまで『困った子』と扱われてきた子どもたちを『困っている子なんだ』という視点でサポート」というくだりが印象に残った。実際、ケアを担う子どもたちは、学校に遅れる、宿題をしてこない、忘れ物が多い、学校を頻繁に休んだり抜けだしたりすることから「困った子」「問題児」とみられることが多い。そのように周囲が接すると、子どもは余計に介護のことを言いづらくなる。学校などがその子の状況を把握し、「指導」ではなく「支援」につなぐことができるかが問われている。ヘルパー事業所などの公的ケア提供側からの情報提供も重要だ。

ヤングケアラーたちが集まる「たまり場」「相談の場」も重要だ。この点ではイギリスの取組みが参考になるだろう。今ならネットを使うことも考えてよさそうだ。ヤングケアラーという言葉がもっと定着し、そういう実態があることが広く知られ、そしていずれは、ヤングケアラーが存在しない社会になってほしいものである。 

 

【本以外】映画『バジュランギおじさんと小さな迷子』はおススメ

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インド映画ってここまで進化してたのか。以前『バーフバリ』を観た時は、その圧倒的なパワーに驚いたが、本作は別の意味で感動させられた。いやあ、まいった。

 

口のきけないパキスタンの少女が、ひょんなことからインドで母とはぐれてしまう。少女と出会ったパワンは、その子がパキスタンから来たことに気づき、どうにかして家族のもとに戻してあげようとする。ビザ発給の道が絶たれ、パワンは自力で国境を越えることを決意する。名前も知らない6歳の少女を家に帰すために・・・・・・。

 

ストーリーは王道ど真ん中、全球直球勝負のピッチャーみたいな映画だが、それがあまりにも力強くて、駆け引きも計算もなしで観客の胸にドカンと届く。まずなんといっても少女役の子がむちゃくちゃ可愛い。口がきけないということは、わずかな表情やジェスチャーだけですべてを伝えなければならないが、そんな難しい演技もしっかりこなしている。主人公のパワンもいい。最初は、がっちりした体格とぬぼっとした感じがどこかオードリーの春日に見えて仕方なかったが(私だけ?)、これがどんどん成長し、内実が伴ってくるのである。

 

インドとパキスタンの確執という難問を真正面から取り上げたのは快挙であろう。しかも、一方的にパキスタンを悪者にするのではなく、むしろ人間としての普遍性に光を当ててヒューマニズムで一貫させたのが素晴らしい。それがインド-パキスタン国境での、あの感動的なラストシーンにつながってくる。

 

もちろんインド映画であるから、歌あり、踊りありのド派手さは相変わらず(主題歌がまたいいんだ、これが。字幕を読んでいるだけで胸に沁みてくる)。ハリウッドがちょっとひねったエンタメかアメコミヒーローものしか作れなくなった今、これだけの直球オンパレードの映画を堂々と押し出してくるインド映画は、もはやハリウッドを超えてしまったのかもしれない。

 

手に汗握り、げらげら笑い、そして感動に涙する(私の隣に座っていた女性は、後半30分くらいずっと泣きっぱなしだった)。これぞ映画、これぞ本物のエンターテインメント。必見です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2306冊目】宇沢弘文『人間の経済』

 

人間の経済 (新潮新書)

人間の経済 (新潮新書)

 

 

前から気になっていた経済学者だが、ちゃんと本を読んだのは初めて。もっとも、本書は著者の講演録やインタビューをもとに書き起こされたものらしい。今度は著者自身が書いた文章で読んでみたい。

それほどに本書は素晴らしかった。タイトルどおり、本書で書かれている経済学には「人間」がいる。マネーゲーム金融工学とは違う、「人の道」としての経済学がここにある。

「私はアメリカやイギリスで長いこと教えたあと、ヴェトナム戦争を契機として日本に帰ってきました。それ以来、日本の経済社会あるいはアメリカの惨憺たる状況を見て、経済学が社会の病を作っているのではないか、何とかして経済学が人間のための学問であるようにと願い、様ざまな努力をしてきました。結局、あまりものにならないようですが、その過程で私は一つ大事なことに気がつきました。
 それは、大切なものは決してお金に換えてはいけない、ということです。人間の生涯において大きな悲劇は、大切なものを権力に奪い取られてしまう、あるいは追いつめられてお金に換えなければならなくなることです」(p.50-51)

少し長い引用になったが、本書のエッセンスはこのくだりに凝縮されていると思う。ただし、そのためには一人一人の人間が、時には自分の職や立場を賭して戦わなければならない。それは社会、教育、都市計画などすべての分野に言えることだ。

印象的だったのは安倍能成のエピソード。旧制一高の校長として終戦を迎えた安倍は、施設を接収するためにやってきた占領軍に対して、こう言い放ったという。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的のためには使わせない」(p.85)

終戦直後に占領軍にここまで言えるというのは相当なものだが、さらにその後、文部大臣になった安倍は、日本の教育改革のためやってきたアメリカの大調査団に対して、またもやこう言ったのだ。

「日本は占領中、いろいろな国を占領した。そのときの最も重い罪は、それぞれの国の歴史、社会、文化、それらを無視して日本の制度を押しつけたことだった。あなた方は占領国を代表して日本の教育制度の改革に来られたが、日本が犯したのと同じ罪を、決して犯さないでほしい」(p.87-88)

見事としか言いようがない。繰り返すが、占領期の日本でこれほどの発言をする人物が日本にはいたのである。ところが、その後の日本はどうだろうか。本書にも書かれているとおり、アメリカの誘導で日本は農業基本法をつくって日本の農業をほとんど壊滅状態に追い込み(農業基本法制定後30年で、農業を選ぶ新卒者は9万人から1800人に減った)、日米構造協議では10年間に630兆円の公共投資を迫られた結果、無駄な公共工事で地方の環境が破壊され、その費用は地方交付税措置をアテにした地方自治体の地方債で賄われたのである(その後の地方交付税カットで多くの第3セクターが巨額の負債を抱え、そのつけ回しを地方自治体が被ることになったのは周知のとおり)。

そこには一人の安倍能成も、また一人の石橋湛山もいなかった(湛山もまた、本書で絶賛されている日本人である)。そして2014年には、人間のための経済学を唱え続けた宇沢弘文が世を去った。いったいこれからの日本は、どこに行ってしまうのだろうか。