自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2305冊目】アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』

 

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

 

 

SFのオールタイム・ベストを問えば、必ず名前が挙がる小説のひとつなのだが、実は今回が初読。『ゲド戦記』のせいでファンタジー作家の印象が強いル・グィンだが、SFを描いても、その世界観の力強さは健在だ。

よくわからない用語や設定がどんどん出てくるのだが、それでも描写されている世界の「実在感」が強力で、架空の世界を描いている感じがしない。細かく設定を詰めているというよりも、全体を覆う世界像というか、イメージ自体が統一できているので、読者はそのイメージを掴み、安心して身を委ねればよい。そうすれば後は、雪と氷の惑星「冬」の中で繰り広げられる、めくるめくドラマを堪能するのみ。

両性具有人という発想がものすごい。惑星ゲセンの人々は普段は男性でも女性でもなく、ただケメルと呼ばれる性の活動期(要するに発情期)に入ると、まず完全な両性具有となり、次いで一方が男性、もう一方が女性へとランダムに変化するのだ。ある人がどちらの性になるかはそのたびに異なるので、ある時は女性として出産し、その後男性となることもありうる(出産についてもいろいろ面白い設定があるのだが、長くなるので略)。

なぜこの発想が凄いのかというと、これはすべての小説が呪縛されている「男と女」という枠組みを一挙にすっ飛ばすことができるのだ。恋愛とか男女の役割とか、そういう要素をほぼ一切省いて、それでもこれほどのドラマができるということに気づかされると、普段読んでいる「ふつうの」小説とはいったい何なのか、「男と女」の関係性とか恋愛マターって本当に必要なのか、いろいろと考えさせられる。というか、男女の性を超克して小説を描こうとすれば、おそらくこの方法しかないのである。そのことに気づいた時点で、本書は小説そのものの新たな領域を切り開いたといってよい。

テクノロジーや宗教上の設定なども実に細かくなされていて、さらに後半のゲンリー・アイとエストラーベンの二人旅は、情景描写といい二人の関係性の描写といい、泣きたくなるほどすばらしくて言葉が出てこない。何度も戻って浸りたくなる、魂の原郷のような世界観であり、小説であった。

 

 

ゲド戦記(6点6冊セット) (岩波少年文庫)

ゲド戦記(6点6冊セット) (岩波少年文庫)

 

 

【2304冊目】池田晶子『人生は愉快だ』

 

人生は愉快だ

人生は愉快だ

 

 

2008年刊行。ということは、2007年に亡くなった著者の、最後の一冊。それが「生と死」を大きく扱っていることは、タイムリーというべきか、皮肉というべきか。

3部構成。第1部は歴代の思想家、宗教家たちの「死」に関する考察を著者流にダイジェストしている。ブッダに始まり、孔子老子ソクラテスデカルトマルクスからフロイトから一休まで登場者は多彩だが、時代が後になったからといって、必ずしも思索が深まっていないところが面白い。というか、冒頭に示されたブッダの死生観を、ひょっとしたら誰も超えていないのではなかろうか。

第2部は人生相談で、こちらは著者ならではの回答が面白い。これを読むと、この人は本当に、徹底的にロゴスの人なのだなあ、と感じる。悩む気持ちに共感するというより、悩みのもとになっている思考の絡まりやほつれに対して、そのおおもとのところに斬り込んでいく。その鮮やかな回答は読んでいて爽快でさえあるが、う~ん、質問者はたぶん、理解はしても悩み自体は氷解しないんじゃないかなあ。

なんて思っていたら、第3部のエッセイで面白いことが書いてあった(「和食は人生の味わいだ」p.272~)。引用させていただこう。

「ところが年齢的に体力も落ち、お肉もさほど欲しくない、そんなふうになってくると、考え方、感じ方も、やはり変わってくるんですね。論理と論理のはざまにあるもっと微妙なもの、捉えようがなくて論理で触れると壊れてしまいそうなもの、これがどうしても気になるようになってきた。そういうものには、これを壊さないように、そっと寄り添って見守っていくという接し方が必要になるのです」(p.274-275)

これまでの著者の、論理でガシガシ進んでいくような思考は肉食的で、食に対する嗜好が変わってくるにつれ、そうでない部分が気になってきたと。うんうん。これはかなり大事な告白だと思う。おそらく著者がもっと長生きしていたら、そういう「和食的池田晶子」の、ロゴスの積み上げ以外の部分からの文章が読めたかもしれない。著者の思索もまた、「語り得ないもの」を語るための、新たな話法を身につけるところに到達したかもしれない。あたかもヴィトゲンシュタインが、前期と後期で大きな展開を遂げたように。

そう考えると、なんとも惜しい時期に著者は亡くなったものだ、と思えてしまう。「後期池田晶子」の哲学を、ぜひ読んでみたかった。

【2303冊目】山崎広子『声のサイエンス』

 

声のサイエンス―あの人の声は、なぜ心を揺さぶるのか (NHK出版新書 548)
 

 

自分の声にはコンプレックスがある。鼻声みたいにくぐもっていて、聞き取りづらく、それでいてやや高めの落ち着かないトーン。話している時はさほど気にならないが、録音で聞くと本当に嫌になる。低くてもどっしり安定した声の人、良く通る朗々とした声の人がいると、いいなあ、と思う。

こんなの自分だけかと思っていたら、なんと8割の人が「自分の声が嫌い」と感じているというから、驚き半分、安心半分。でもその後に「声とはひとりひとりの履歴書のようなもの」とあって、またがっくり。声は体格や骨格、生育環境や性格まで、その人のすべてを映し出すのだという。だから、著者は声を聞いただけでその人のプロフィールがある程度分かってしまうというのだ。

例えば一般的傾向として、背が高いと声が低く、背が低いと声が高い。落ち込んでいれば声も暗いし、ピリピリした気分も声に出る。病気や体調も声に出る。心臓に疾患があると「サ行」「カ行」が不明瞭になり、睡眠不足や過労があると出だしがかすれる。急に声に芯がなくなりくぐもるようだが、脳梗塞の予兆の可能性もあるという。

なぜこれほど声が自分自身を反映してしまうかと言えば、それは「身体は、声専用の器官ではないから」。例えば、声帯は気管や肺に異物が入るのを防ぐフィルターのようなものだし、声帯を震わせる呼気も呼吸のためのものだ。発音をつくる歯や舌や唇は消化器官の一部である。人間はこのような、もともと別の働きをするためにある器官を「借りて」声を出しているのだから、そこにはもともとの働きに関する動向が映り込んでしまうのだ。

とはいえこれは、自分の声は変えられない、ということではない。ただし、○○さんの声がキレイだから同じように……と思っても、これはあまりうまくいかないようである。著者はむしろ、自分だけが持っている「本物の声」を使うことが大事だという。(私も含め)「自分の声が嫌い」という人は、そもそも自分本来の声を引き出せていないというのである。

「本物の声」とか言われるとなんだかうさんくさいが、著者はこれを「心身の恒常性に適った声」と説明する。恒常性とは「人間の心身を正常で健康な状態に安定させる仕組み」(p.171)のこと。これは2つのことを意味している。第一に、心身が健康で安定していれば、誰もが「本物の声」を出せるということ。第二に、「本物の声」を出すことによって、かえって心身の健康が維持できる、ということだ。

そのために必要なメソッドは、とても簡単。まず、自分の声を録音する。次にそれを聴き、嫌いな自分の声の中に時折混じる「あれ、この声は嫌じゃないな」と思える声を探してみる。見つかったら、同じ部分を何度も聴く。そして、その声を思い出しながら改めて録音し、聞きなおしてみる。肝心なのは、あまり期間を空けないこと。最初に話した時の感覚が残っているうちにやってみること。これは、聴覚によるフィードバックの仕組みを利用した方法だという。

「本物の声」「本当のあなた自身の声」とか言われると、なんだかうさんくさく感じてしまうが、このメソッド自体は認知心理学がベースになっているように思われ、非常に合理的かつシンプルだ。自分の声を録音するのはイヤだが(聞きなおすのはもっとイヤ)、一生モノの「自分の声」が手に入ると思えば我慢できそうだ。

 

【本以外】新・北斎展に行ってきました

六本木で開催中の「新・北斎展」へ。

 

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北斎と言えば『富嶽三十六景』か、最近話題になった『北斎漫画』の印象が強いが、この展覧会は、それ以外も含めた北斎の全体像を総覧できる。私財を投じて北斎作品を集めまくった北斎研究の第一人者、永田生慈が企画したものの、実現を待たず亡くなってしまったといういわくつき。出品作品の多くを占める「永田コレクション」は、この展覧会を最後に島根県に寄贈され、東京で見られるのはこの展覧会が最後になるとのこと。そんなことを言われたら、観に行かないワケにはいかない。

 

全体構成は若い頃から晩年までをほぼ時系列に並べるというスタンダードなもの。とはいっても、なにせ画業通算70年の北斎である。その質量たるやハンパではない。しかも、この人が凄いのは、若い頃は比較的おとなしく精緻な作品が多かったのが、晩年になるにしたがってどんどん大胆に、ダイナミックになっていくところ。普通は老人になると絵も枯れていくのではないかと思っていたが、この人には通用しなさそうだ。

 

ところどころに版画の制作過程が丁寧に解説されていたり(版木が展示されていたのもすばらしい)、弟子に向けて書かれた練習帳のようなデッサン集まで展示されていて、たいへん充実した展覧会だった。故永田氏と、その遺志を継いだスタッフの方々の、高い志が結実したものだろう。この水準の北斎展がふたたび開催されることは、おそらく今後ないのではなかろうか。

 

では、膨大な展示作品の中から独断と偏見で選んだ「私的ベスト10」を最後に掲げておく。ちなみに番号は順位ではなく、図録の掲載順なので念のため(図録も超充実しているので、行ったら必ず買うこと!)。

 

1 「浮世東叡山中堂之図」(図録No.27)

 初期の精緻な作品からはコチラを。隅田川の花火大会を描いた「江都両国橋夕涼花火之図」(No.25)も、人がいっぱいいて『ウォーリーを探せ!』状態で楽しいが、「浮世東叡山中堂之図」は構図が面白い。手前にまたがる橋の下が吸い込まれるような遠近法で描かれており、お堂の奥まで視線がずずっと届くようになっている。日本の絵には遠近法がないなんて、誰が言ったんだっけ?

 

2 「両国夕涼」(No.70)

 ベスト10として取り上げるには地味な作品だろうが、北斎作品の魅力のひとつである子どもの姿が生き生きと描かれているのと、背景を影絵のようにシルエットだけで描くという手法が面白い。子どもの姿で言えば「風流五節句子供遊」(No.38)や、ずっと後期の「牧童図」(No.413)もお薦めだ。

 

3 「見立三番叟」(No.211)

 3人の女性を描いた作品はいくつかあるが、この作品は、流れるような着物の描写に魅了された。衣擦れの音から布の触り心地まで感じられそうだ。なかでも真ん中の女性「翁」のスタイリッシュな造形は圧巻。

 

4 「蛸図」(No.226

 大好きな一幅。かわいらしく、それでいて質感がしっかり伝わる精妙な画法である。北斎には、漫画も含めて蛸がよく出てくるが、みんな実にチャーミングなのだ。「謎かけ戯画集 おあしが八本」(No.195-3)も面白い。

 

5 「総房海陸勝景奇覧」(No.242)

 思わず見入ってしまった緻密な作品。要は地図なのだが、びっちり書かれた山や家の密度がすごい。まあ、絵としてどうこうという作品ではないのだが、たぶん自分がこういう「地図」を見るのが好きなのでしょう。

 

6 「富嶽三十六景 深川万年橋下」(No.303)

 富嶽三十六景は全部取り上げたいくらいの傑作揃いなのだが、ここでは橋の下に富士を入れたユニークな一枚を。富士が小さい分、橋の上に広がる空が広い。もう一点取り上げるとしたら、逆に富士そのものを真正面から描いた「凱風快晴」(No.299)だろうか。

 

7 「文昌星図」(No.446)

 北斗七星のひとつを擬人化したダイナミックな作品。老境になって描かれたとは思えない、パワフルで充実した作品だ。言うことなし。

 

8 「向向日葵図」(No.455)

 これも晩年の、向日葵一本だけを描いた作品。植物や動物を描いた作品は数多く、どれも素晴らしいのだが、この作品はそれらに比べても頭一つ抜けている。図録で見るとまた印象が違うのだが、実物はなんというか、只事じゃない雰囲気があるのである。向日葵の存在感に圧倒される、というか。異様な傑作だ。

 

9 「弘法大師修法図」(No.462)

 研究の結果をもとに、永田氏が西新井大師の物置から発見したという今回の目玉作品。ここまで比較的中程度~小さめの作品が多かったので、なんといってもその大きさにびっくりする。悪鬼のダイナミックな迫力に、なんだか青森のねぶたを連想してしまった。これまた晩年の作というのが信じられない。

 

10 「津和野藩伝来擦物」(No.157)

 展示順では前半の方に入るが、図録では後ろの方にまとめられている。一連の作品だが、これはとにかく色の鮮やかさがいい。保存状態が良かったため、当時の色遣いがそのまま感じられる。日本の古い絵のウィークポイントは、色がだんだん色あせてきて、どうしても古臭く見えてしまうこと。この作品ではそれがなく、発表当時の作品は(これに限らず)こんなにヴィヴィッドだったんだ、とわかる。それがなんとも新鮮でたのしく、ここに入れさせていただいた。

 

ちなみに図録には、展示されていない絵も山ほどあった(ベスト10には入れていない)。展示替えでかなり入れ替わるのだろうか。だったら、そのためにもう一度足を運ぶのもよさそうだ。いままで、そんなことをした例はないのだが。

 

 

 

【2302冊目】フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』

 

さあ、気ちがいになりなさい (異色作家短編集)

さあ、気ちがいになりなさい (異色作家短編集)

 

 

古き良きSF小説の中でも、フレドリック・ブラウンは最高峰。シンプルで、ユーモラスで、適度にツイストが効いている。星新一筒井康隆、あるいは手塚治虫藤子不二雄のSFのルーツはここにあったとよくわかる。ちなみに本書の翻訳者は、その星新一。なんてゼータクな。「みどりの星へ」「ぶっそうなやつら」「おそるべき坊や」「電獣ヴァヴェリ」「ノック」「ユーディの原理」「シリウス・ゼロ」「町を求む」「帽子の手品」「不死鳥への手紙」「沈黙と叫び」「さあ、気ちがいになりなさい」の12篇が収められている。

「おそるべき坊や」は小品ながらウィットが効いていて面白い。子どもって、大人の知らないところで、実は世界を救っているものなのだ。でも大人はそれがわからないから、子どもを叱ってばかり。

「ノック」もちょっとした小話みたいなものだが、星新一の名作ショートショート集『ノックの音が』を思わせる。びっくりしたのは「ユーディの原理」で、これは無限ループ構造のようなものが埋め込まれた異様な作品。「さあ、気ちがいになりなさい」はSFというより一種のブラック・ユーモアで、何が妄想で何が現実なのか、読むうちにどんどんわからなくなっていく。

他の作品も粒ぞろいの秀作ばかり。現代のハードSFに比べれば古臭く感じる部分もあるが、私はこれくらいの方が安心して楽しめる。