【2385冊目】ビョルン・ベルゲ『世界から消えた50の国』

 

世界から消えた50の国 1840-1975年

世界から消えた50の国 1840-1975年

 

 

驚くべき本である。本書で取り上げられているのは、すべて「今は存在しない」国ばかり(厳密には「国」とはいえないものも含まれるが)。だが、失われた国の歴史や文化をたどることで、近現代史そのものがリアルに浮かび上がってくる。

面白いのは「切手」に着目しているところ。切手が発行されるということは、その地域で郵便が配達されるということであり、ある程度の社会的インフラが整っていることを意味する。さらに、切手の中には加刷といって、他の国や地域で使われているものの上に国名などの文字を印刷して用いているものもある。また、絵柄もその国や地域の独自性を感じさせるものもあれば、その国を事実上支配する国の人物(多いのはイギリス)のヴィクトリア女王など)が描かれているものもある。また、イスラム系の国では、人物の肖像を描くことができず、そうしたところからその国の宗教や習慣を推し量ることもできるのだ。

それにしても、今は存在しない国とはどんなものなのか、なかなか想像しづらいものがあるだろう。そのため、本書のイメージをつかむため、以下に10ほどの国・地域をピックアップしてみよう。有名無名とりまぜて、順序は本書の登場順(だいたいの年代順)による。興味を惹かれたら、残りの40国・地域についても、ぜひ本書にあたっていただきたい。

 

◆ヴァン・ディーメンズ・ランド(1803-1856)

 オーストラリアの南に浮かぶこの島は、イギリス最大の囚人流刑地だった。1822年の時点で、人口12,000人の60パーセントが囚人だったという。島全体が管理されていたが、入植者の家で刑期を務める者にはある程度の自由も認められ、彼らはその時間をカンガルー狩りにあてた。問題は、島にもともと住んでいた数千人のアボリジニにとって、カンガルーは貴重な食糧であり、生活に欠かせない動物だったことだ。カンガルーを絶滅に追いやろうとする白人たちを攻撃したアボリジニに待っていたのは、輪をかけた虐殺と強制収容所への収容だった。1856年、この島はタスマニアと改名され、1901年にはオーストラリアの統治下に置かれた。島で最後のアボリジニが死去したのはそれより前の1876年であったという。

 

◆ボパール(1818-1949)

 キプリングが『ジャングル・ブック』の舞台に選び、後には史上最悪の産業災害と言われるユニオンカーバイド社の毒ガス漏洩事故があったボパールは、かつて独立した君主国だったが、後にイギリス東インド会社と提携し藩王国となった。珍しいことに、初代から4代までの統治者はすべて女性であった。1876年に初めて作られた切手は王女の指輪のダイヤモンドをモチーフにした八角形という、これまた珍しいものだった。イスラム教徒が多くを占めたが、第3代女王カイフスラウは選挙を実施して立法議会を設立する一方、ヒンドゥー教徒を重要な職に就けるという開明ぶりをみせた。皮肉なことにボパールの自治が失われたのは、イギリスが手を引き、インド連邦の一部に併合されたためであったという。

 

◆セダン(1888-1890)

 パリの伊達男と呼ばれ、横領の罪で追われていたシャルル=マリー・ダヴィッド・ド・マイレナの一行は、仏領インドシナのど真ん中で村を接収し、部族長を抱き込んで独立王国を樹立し、自らはマリー一世として即位した。国家運営の資金を集めるため香港を経てヨーロッパを歴訪したが、マリー一世という肩書きはほとんど関心を集めず、かえってフランス政府から訴追されそうになった。あわてて帰国の途についたド・マイレナは、途中で立ち寄ったイギリス領ティオマン島コブラに噛まれ、あっけなく死んだ。セダンはフランスによってその痕跡を抹消され、切手以外にその存在を伝えるものはない。今はベトナムの一部となり、ベトナム戦争では大きな被害を受けたという。

 

◆ティエラデルフエゴ(1891)

 南アメリカ大陸南端のティエラデルフエゴの群島にユリウス・ポッパーなる人物が現れたのは、1886年のことであった。アルゼンチンから金の採掘権を認められたポッパーはたちまち「シャンパンとキャビアが大好物のプレイボーイ」として知られるようになったが、問題は100人規模の私設軍をつくり、盗人や無断採掘者、さらには先住民を攻撃するようになったことだ。インディオ1人にウイスキー1本か英貨1ポンド。条件は両手か両耳を切り取って持ってくること(後に「首」に変更)。こうして登場したポッパー帝国は、当のポッパーが毒殺されたことであっけなく瓦解。ティエラデルフエゴはアルゼンチンとチリに分割された。

 

◆ヘジャズ(1916-1925)

 アラビア半島の西側、紅海に沿って南北に延びるヘジャズは、メッカやメディナをその中に含む中東の要衝である。オスマントルコの支配権が及ぶこの地で、イギリスの肝いりでアラブ人による反乱が画策され、ここで登場したのがアラビアのロレンスことトマス・エドワード・ロレンスだった。しかしイギリスはアラブ人との約束を破ってこの地を委託統治領とし、その中でも独立した王国としての体裁を維持したヘジャズは、隣国ネジド・スルタン国の軍勢によって占領されネジド・ヘジャズ王国となり、1932年にはサウジアラビア王国と名乗るようになったのだ。

 

極東共和国(1920-1922)

 ロシアの東側、オホーツク海に面した極東の地に突如出現した「極東共和国」。自由選挙と普通選挙権の実現を宣言した、理想に燃える独立国家の正体は、実はモスクワのボリシェヴィキによる演出であった。ロシア革命直後のこの時期、皇帝派の白軍が日本軍と結んで太平洋沿岸部に展開していたため、ボリシェヴィキはいわば緩衝国として極東共和国をつくったのだ。350万人の国民を抱え、キリル文字をあしらった切手を発行するまでに至ったこの「独立国」は、白軍の壊滅によって用済みとなり、1922年、レーニンの提案に基づいてあっけなく消滅した。

 

◆カルナロ/フィウメ(1919-1924)

 イタリアと後のユーゴスラヴィアの間にはさまった自由都市フィウメをイタリア側に統一しようと動いたのは、モンテネヴォーゾ公爵、またの名をダンヌンツィオという高名な詩人であった。2600名の熱烈な民族主義者を引き連れてフィウメに入城したダンヌンツィオは、15か月にわたり都市を占拠、イタリアにフィウメ併合の承認を求めたが聞き入れられず、ついに自らカルナロ・イタリア執政府の樹立を宣言。自らを「ドゥーチェ」(指導者)と位置づけ、黒シャツ隊(国家安全義勇軍)を導入、統制されたパレードやバルコニーでの派手な演説を行った。これらは後にムッソリーニがダンヌンツィオの後を引き継いだ際に導入、ファシズムの基本衣装となった。一方、フィウメは後に分割され、大半がイタリア領になったが、大戦後はユーゴの占領下に移行、リエカと改名された。現在はクロアチアの一部になっている。

 

満州国(1932-1945)

 本書に登場する日本絡みの「国」は、この満州国琉球(面白いことに大戦後から沖縄返還までのアメリカ占領期間が扱われている)のみ。中でも満州国は、ラスト・エンペラー溥儀をトップに戴いた典型的な傀儡政権であった。だが、著者が着目するのはむしろ、ここで行われた陰惨な人体実験。石井四郎中将のもと、満州731部隊が行ったのは「脳と腸の除去及び改造、馬の血の注入、ガス室や圧力室、遠心機での実験」「炭疽菌チフス赤痢コレラ、伝染性のバクテリア」を用いた感染性生体物質の実験など。中国人とロシア人の一般市民1万人以上が命を奪われた。さらに病原体に汚染されたハエを中国の都市上空で放出する、パラチフス入り饅頭を飢饉にあえぐ南京周辺にわざと放置する等の行為も含めると、犠牲者は百万人を越えると著者は書く。戦後、石井中将らは戦犯免責となり、多くはアメリカの生物兵器開発研究に加わった。その「成果」が披露されたのが、かのベトナム戦争であったのだ。

 

◆タンジール国際管理地区(1923-1956)

 モロッコの北端、ジブラルタル海峡近くの要衝タンジールは国際管理地区として完全な非武装地帯とされた。同時に行われたのがほとんどいっさいの規制の撤廃であり、その結果タンジールは、欲望と背徳が渦巻く「近代のソドム」となった。密輸、マネーロンダリング、武器取引、売春、ありとあらゆる犯罪の巣窟となったタンジールは、同時に自由を求めるビート族やヒッピーの楽園ともなった。ポール・ボウルズトルーマン・カポーティテネシー・ウィリアムズアレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズらの文学は、タンジールの自由と退廃なくして生まれなかったろう。1956年のモロッコ復帰に伴い、そのすべてに突然幕が下りたのだった。

 

◆アッパーヤファ(1800-1967)

 アラビア半島の山あいにあるロンドンくらいの広さのアッパーヤファは、1800年頃から長きにわたり、スルタンによって治められた独立国家だった。1903年、近隣のアデンを植民地化したイギリスと相互防衛条約を締結したアッパーヤファは、アデン保護領の一部となりながらもほとんどヨーロッパ人が訪れない暮らしを1960年代まで続けた。だがエジプトのナセルがイギリス側を撃退、1967年には植民地軍の反乱でイギリスが撤退を余儀なくされると、親英的な君主はすべて引きずりおろされ、スルタンも暗殺された。最終的にはイエメンと統合、消滅。実はその前に、中東で最初で最後のマルクス主義国家「イエメン民主人民共和国」が出現していたことはあまり知られていない。