自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1591冊目】三浦瑠麗『シビリアンの戦争』

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

シビリアンコントロール」という言葉を知ったのは、中学校の授業だっただろうか。軍隊っていうのは軍人に任せておくと暴走するから「文民」がコントロールしなきゃならないんだ、というような説明を、先生から受けた気がする。そして、日本の近現代史を学んでいると、この説明にはたいへん説得力があった。

ところが本書は、この「シビリアンコントロール」自体に疑義を呈する。むしろ国家を戦争に追いやるのは「シビリアン」であり、その背後にいる民衆なのだ、というのである。事例として取り上げられているのは、クリミア戦争、第一次・第二次レバノン戦争、フォークランド戦争、そしてイラク戦争だ。

例えばクリミア戦争。著者はこの戦争を「シビリアンの戦争の萌芽」と位置づける。きっかけはトルコ海軍がロシアに大敗した「シノープの海戦」だった。開戦を待ち望んでいた政治家は、この大敗を「シノープの虐殺」と呼んで国民感情を煽りたて、「正義の戦争」イギリス軍を向かわせたのだ。一方、戦争の「プロ」であるイギリス軍は開戦に消極的だった。

こうした構造はイスラエルの第一次・第二次レバノン戦争、イギリスのフォークランド戦争にも共通していた。いずれも「文民」である政治家が国内世論を煽り、反対する軍の意見を無視して戦争に突入させた。

フォークランド戦争では、世論調査の結果、サッチャー政権の戦争遂行方法の支持率は当初60%で、後に84%まで上昇した。しかも兵士の犠牲の増減は、支持率にあまり影響を及ぼさなかったらしい。「国民の戦争支持が人命および金銭的コストによって比較的左右されにくく、また兵士の犠牲に冷淡だった」(p.126)と著者は言う。

こうした傾向がさらに顕著な形であらわれたのが、イラク戦争だ。政府は戦争の動機を「捏造」し、アメリカ国民の多くはそれに乗ってイラク戦争を支持した。国民の大多数が、911同時多発テロサダム・フセインが無関係だと知りつつ開戦に賛成した。イラクのWMD(大量破壊兵器)保有を理由とした開戦に7割の国民が支持を与えていたが、結局WMDが発見されなかったにもかかわらず、回答者の6割弱がそれでもイラク戦争は正当化できると考えていた。

一方で、軍人の多くはイラク戦争に反対しつつ、その声を上げることができなかった。皮肉にも「シビリアン・コントロールの名の下に」軍人には戦争に関する発言は許されなかったのである。声を上げたのは退役兵たちだった。「文民」が戦争を起こし「軍人」が反対するという「いつものパターン」がここでもまた繰り返されたのだ。

もちろん、すべての戦争を文民が主導し、軍人が反対するということではない。日本の昭和史を紐解くまでもなく、最近のエジプトにも見られるように、軍人が暴走し、文民が歯止めをかけられなかった事例も、世界中で見受けられる。だが、その歯止めのために設けられたシビリアン・コントロールが、かえって戦争遂行装置と成り果てたケースがあることも、また現実なのである。

なぜこんなことが起きるのか。そもそもシビリアン・コントロールという思想の背景には、「一般人」と「軍人」を分断する考え方がある。そもそもこの「分断」「断層」自体に問題があるのではないか、というのが著者の結論だ。

そしてこの結論から、著者はかなり衝撃的な「対応策」を提示する。著者はデモクラシーの「共和国」化を提案し、その中で「緩やかな徴兵制度の復活ないし予備役兵制度の拡充により、国防に関わる軍の経験や価値観をひとりでも多くの国民が体験すること」(p.229)が必要だと言うのである。

一見、ギョッとするような提案だが、考えてみればそもそも古代ギリシアやローマの「市民」には、確か兵役の義務も含まれていたのではなかったか。ある意味、著者の提案はラディカルなようでいて、市民イコール軍人であった時代への「原点回帰」なのかもしれない。

ただ、著者の提案はむしろ、日本に限らず多くの「先進国」で、軍隊をあまりにも「他人事」にし過ぎているという問題提起と見るべきなのだと思う。そういえば、お隣の韓国をはじめ、世界には実際に徴兵制を採っている国がいくつかある。そういう国における「シビリアンの戦争」がどうなっているのか、本書では触れられていなかったが、そのあたりの実情も知ってみたい気がする。