自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1449冊目】ブルース・チャトウィン『パタゴニア』

パタゴニア

パタゴニア

「紀行文学の名作」という触れ込みで読んだのだが、どうやらそれがよくなかったらしい。

確かに「紀行文学」ではあるのだが、単に著者自身が見たものを時系列で綴っただけの本ではない。その土地に織り込まれた歴史やら物語やらがどんどん挿入されてくる。そのあたりのリズムがつかめなくて、最初なかなか本に入っていけなかった。

つまりはめっぽう多重的で、立体的な紀行文なのだ。しかも文体がストイックというか、乾いている。誰かがヘミングウェイの文章になぞらえていたが、まさにそういう感じ。絵の具や色鉛筆で描くというより、ナイフでざくざくと刻みつけていくような書き方だ。

情景描写も魅力的だが、本書の主役は、人間とその社会。インディオと白人。軍事政権とアナーキズム。呪術性と即物性。ラテンアメリカ文学の「定番」テーマが、本書にもずらりと揃っている。インディオの辿った悲劇的な運命はなんとも痛切だし、その犠牲の上に、今なおイギリス人たちがでかい面をしてのさばっているのは、読んでいて実に苦々しい。

著者自身もイギリス人であり、旅の途中で出会うイギリス人に対する眼は、親しみと懐かしさが半分、戸惑いが半分であるようにも感じる(こちらの思い込みかもしれないが)。特に、いまだにインディオやその文化を一段低いものと見ている同国人への視線はきびしい。こんなくだりが印象に残っている。

「式典のあと、年配の客は、白と黒のお仕着せを着たメイドにスコーンと薄いお茶のサービスを受けながら、冬園でくつろいだ。話題がインディオのことに転じた。一族の中の”イギリス人”が言った。
『この島のインディオ虐殺に関しては、いささか大げさに言われすぎたきらいがある。知ってのとおり、彼らはきわめて程度の低いインディオだった。つまりアステカ族やインカ族とは違うということだ。文化も何もない。概してお粗末な連中だったのだ』」(p.210)

人さまが先に住んでいた島に後から土足で乗り込んで、あまつさえイギリス風のティー・ブレイクをそこでやり、言うことがこれである。なんと醜悪な「文明人」であることか。しかしこの醜悪な独善性をもって、イギリス人(やそれ以外の「文明国」)の連中は、南米やアジアやアフリカを蹂躙していったのだ。

一方、ちらちらと出てくる土着の神話や物語めいた存在も気になるところ。特に忘れられないのは「ブルヘリア」(男の魔法使い)という集団についての記述であり、特にそのなかのインブンチェなる存在だ。

「……まず赤ん坊の腕や足の関節をばらばらにはずし、それから頭の位置を変える。来る日も来る日も、何時間もぶっつづけに止血帯で頭をひねりつづけ、頭が元の状態と一八〇度をなすように、つまり自分の背骨をまっすぐ見おろせる位置までもっていく…(略)…満月の夜、赤ん坊は台に寝かされ、頭に袋をかけて縛りつけられる。まず右の肩胛骨の下に深い切り込みが入れられ、その切り込みの中へ右腕が挿入される。そして傷口を雌羊の首からとった糸で縫い合わせ、傷が癒えればインブンチェはできあがりだ」(p.162)

なかなかすさまじい描写だが、このインブンチェは離乳前は人の乳、離乳後は人の肉で育てられ、やがては洞窟の守護者として彼らを指導するという。ここには「白人の文明」はまったく出番がない。このあたりが、白人が来る前からつづく、南米の闇のもっとも深い部分なのかもしれない。

今回読んだめるくまーる版はすでに絶版らしいが(私は図書館で借りた)、フエンテス『老いぼれグリンゴ』とともに、例の池澤夏樹世界文学全集に収められている。つまりは、それほどの作品であるということ。直線的な紀行文ではなく、多元的に乱反射するプリズムのような作品として読むとよい。

ところで、「訳者あとがき」にちょっと面白いことが書いてあった。サザビーズの鑑定人をやめて突然パタゴニアに旅立ったとき、チャトウィンのバックパックにはなんと、松尾芭蕉の『奥の細道』が入っていたという。う〜ん、なるほど。そういえば芭蕉もまた、自身の旅に西行の旅路を重ね合わせた、多重的な旅行者であった。

パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8) 芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)