自治体職員の読書ノート

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【1994冊目】木田元『偶然性と運命』

 

偶然性と運命 (岩波新書)

偶然性と運命 (岩波新書)

 

 

「偶然の出会い」と「運命の出会い」は、どう違うのか。

こんなことが哲学のテーマになるというのが意外だが、本書はこの「偶然と運命」をめぐる哲学史を辿る本。新書ながらなかなか濃密かつ難解な一冊であった。

ハイデガーニーチェヤスパースメルロ=ポンティといった錚々たる面々から、ヴォリンガーやシュルツといったややマイナーな思想家、さらには精神分析学のユングまでが登場する。日本人からは『いきの構造』の九鬼周造。いわゆる「普通」の哲学史と重なりつつも、ここにはやはり独自の系譜がみられる。

そもそも「偶然」を哲学のテーマとして扱うには、「神がすべてを定め給うた」とする決定論的な思考から脱却していることが必要である。だからこそ本書に出てくる哲学者は、ライプニッツを例外として、近代以降の人物ばかり。中でもハイデガーの「運命論」は、難しいながらなかなか痺れるものがある。「死への先駆だけが、あらゆる偶然的で〈暫定的〉な可能性を排除する。死に向かって自由に開かれてあることだけが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性へ押しやる」なんて、なんともカッコいい。

それでは、著者自身の「偶然論」「運命論」はどうなのか、ということが気になってくるのだが、ここで著者は突然ドストエフスキーの『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』を引き合いに出しつつ、冒頭の問題意識にあった「運命の出逢い」つまりは「めぐり逢い」に戻るのである。ハイデガーの「運命」が個人の内部に閉じているのに対して、著者は、外から不意に襲いかかってくる「出逢い」こそがわれわれを力づくで日常性からひきはがすのであって、そこにおいて「偶然」は「運命」に変ずると考えるのだ。そのことを言い表していると思われる著者のことばを、最後に引用しておきたい。

「〈出逢い〉とは、他者が激しい情動的体験によってこの自己閉鎖を打ち破り、〈自己-自己〉の構造を打ちこわして、ふたたび〈自己-他者〉の構造が、つまり〈他者と共にある〉本来的な存在が回復されることだと考えられないだろうか」