自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2356冊目】松田純『安楽死・尊厳死の現在』

 

 

安楽死を最初に法制化したのはオランダである。ベルギー、ルクセンブルク、カナダなどが後に続き、スイスのようにあえて法制化せず安楽死を認めた国も登場した。スイスは自殺幇助罪を「利己的な動機」によるものに限定することで、非・利己的な「自殺介助」を処罰しないこととしたのである。スイスは外国人の自殺介助も盛んであり「自殺ツーリズム」を運営する民間団体もあるというからびっくりだ。

ちなみにこうした民間団体のひとつディグニタスの国別登録会員数でぶっちぎりの一位は、ドイツ。ナチスドイツによる障害者「安楽死」の歴史をもつドイツでは、安楽死の容認への社会的ハードルがきわめて高い。

ここまで「安楽死」と「自殺介助」をあえてまぜこぜにして書いたが、実際は医師の手によって行われる「安楽死」と、自ら死を選ぶ「自己安楽死」は、意味合いが大きく異なる。ちなみにこの文脈でいう自殺介助とは、自ら「自己安楽死」ができない状態の人の死を、他者が助けることである。

安楽死」とはそもそも、一定の条件のもとに、医師が「死」を与える行為である。これを本書では「死の医療化」と呼ぶ。一見、安楽死は「患者が自ら死を選ぶ」行為に思えるが、実は患者が望んでも、最終的に安楽死を認めるか否かの判断を行うのは医師である。実際にオランダでは、安楽死希望者の半数は「死を認められない」のだ。言い換えれば、安楽死は、死そのものを医療の手のうちに収めたのである。それまでは、医療は「生」の可能性を追求するものであり、死はその埒外にあるものだったのだが。

一方の「自己安楽死」は、安楽死の決定権つまりは死ぬ権利を医師の手から個人に取り戻す『安楽死の脱医療化』」(p.31)であった。一見似た者同士に見える安楽死と自己安楽死が、見方によっては両極端の存在になるのである。とはいえ、さて、ここであらためて考えなければならないことがある。そもそも死は、個人が選び取ることができるものなのだろうか、ということだ。

実はこれが超難問なのである。ヨーロッパを見ても、アリストテレスアウグスティヌストマス・アクィナスは自殺を認めず、トマス・モアやフランシス・ベーコン、ヒュームらは(ニュアンスは異なるが)自ら死を選ぶことを肯定した。ところが、歴史はここからとんでもない方向に捻じ曲がる。自殺を肯定する論調は、進化論や優生学の登場と共に「生きるに値しない生を中止する」ことへの肯定にすり替わり、その極限形態として起こったのが、先ほど挙げたナチスの「障害者安楽死」政策だったのだ。

 

そこまで極端ではなくとも、安楽死を肯定する議論は、一歩間違うと「死を強要する圧力」になりかねない。「家族に迷惑をかけているのだから」などといった理由で、暗黙の裡に「安楽死を望む」ことを期待されるようなケースが絶対に起きないとはいえないのだ。だからといって、安楽死を一切認めない論調も、今やコンセンサスを得られないだろう。実際、日本でも,「延命治療の中断」についてはかなり広く行われるようになってきているし、社会的な認知も高まっている。

 

安楽死」「死の自己決定」をめぐる議論に答えはない。ただひとつ言えるのは、ハイデガーを引くまでもなく、「死と向き合う」ことの重要性を抜きにして、この問題は語れないということだ。本書は最終章でオランダの「ポジティブ・ヘルス運動」を紹介しているが、本来は死を直視するところから始まる「ネガティブ・ヘルスの哲学」こそが、安楽死をめぐる議論には必要なのではないだろうか。

 

 

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

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