自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1705冊目】芦田宏直『努力する人間になってはいけない』


圧巻の一冊。しょっぱなからいきなり、頭をガツンとやられた気分だ。

第1章・第2章は、著者が理事・校長を務める専門学校での卒業式・入学式の式辞を文字にしたもので、つまりはこれから学校で学ぶ、あるいは社会に出る若者に向けた言葉が収められている。

しかしこれが、社会人の目から見ても相当なことばかりを言っているのだ。なんというか、社会人になったばかりだと誰も教えてくれないけど、社会人になって何年か経つとうすうす気付いてくるような(でも勘の悪い人は気付かず置いてきぼりをくらうような)「暗黙の了解」的部分が見事に言語化されている。

表題作(というべきか)「努力する人間になってはいけない」では「努力主義は、自己のやり方を変えようとしないエゴイズム」(p.31)という指摘に感服した。言えている。さらに言えば、努力って本当は「ラク」なのだ。むしろ著者が努力の反対語として挙げる「考える」のほうが重要で、しかも難しい。

「考える」と「努力する」は一見似ているが、方向性はまったく違う。「考える」は「変わる」ことを伴うが、「努力」は基本的に同じコトの反復だ。個人的には「考える」というより「工夫」と呼びたいのだが、いずれにせよ、社会人になる前にこんな「金言」を伝えてくれるとは、なんとありがたいことであろうか。

個人的事情により私がグサッときたのは、第2章のラスト「読書〈初級〉〈中級〉〈上級〉」という部分。これも入学式の祝辞なのだが、ここでは本の読み方にも初級、中級、上級があるという読書論が展開されている。

初級は、普段はほとんど本を読まず「朝礼当番か、プレゼンの前の日に忙しく本を読む」人たち。「本を読んでもノウハウ本、平積み本、ハードカバーのついた本であってもせいぜい司馬遼太郎歴史小説」という人たち。まあ、だいたい想像はつくでしょう。読み方については言うまでもないかと。

中級は「本の一部を地の文のまま一段落以上引用することのできる人」。これはちょっとわかりにくいが、自分の都合や必要に合わせて該当する部分をピックアップできるだけの読み方はできる人、という程度だろうか。私も引用はよくやるが、こういうご都合主義的な引用にならないよう気をつけねば。

となると、だいたい察しはつくだろうが、上級は「著者(の魂)で本を買うことのできる人」ということになる。著者の言い方では「書物の〈心〉」をつかむことができるかどうか。ちなみに私はこれを書物の「核」と呼んでいる

そして、この「読書ノート」は、うまくいかないことも多いが、できるだけその本の「心」「核」を捉えたいと思いつつ書いてきた。ところが著者は、一冊の本の〈全体〉=〈心〉を読むような読書は、学生時代しかできないと言う。「効率主義で社会的に分業化された社会人は雑誌か新聞かベストセラーしか読めない」(p.89)のだそうだ。そしてあるガソリンスタンドの例を引きつつ、物事の〈全体〉〈心〉を捉える重要性を語り、最後にこう書いているのである。

「しかし〈勉強〉はインターネットのようにいつでもできるものではありません。歳を取って本を読んでいる人なんて、私は絶対に信じません。そんな連中は職場の中では必ず嫌われ者です。若いときの勉強や読書の質は、その人の勉強の一生のスタイルをすべて決めているのです」(p.94)


これはちょっとショックだった。いや、引っかかったのは、職場の嫌われ者かどうかとかそういうくだりじゃなくって、今になって私がいろんな本を読んでいる要因のひとつに、あまり本を読まなかった学生時代の「遅れ」を取り戻そうとしているということがあるんじゃないかと、このくだりを読んで気付かされたのだ。

学生時代にやり残した読書の基礎工事を、自分はここにきてやっている。そして、それはもう手遅れなのだ。この二つを同時に突き付けられたワケで、これは痛かった。ううう。

もっとも、学生に向けた言葉としては、これは100%正しいと思う。学生時代にこそ読むべき本、学生時代でないと読めない読み方というのは、確かにあるのだ。読書は何歳になっても始められるなんて言う人もいるが、そんなのは単なるおためごかしであろう。

さて、なんだか第1章と第2章の一部分だけでずいぶん長くなってしまったが、続く第3章「就職活動への檄二〇箇条」までがいわば学生向けのイントロで、続く第4章「読書とは何か」からが、いわば大人向きの内容といえる。ひとつひとつを紹介していると長大になるので(すでに十分長い読書ノートになっているが)タイトルを挙げておくと、読書論とコピペ論の第4章に続く第5章は、エッセイ風の「家族は「社会の基本単位」ではない」。ここでは著者自身のご家族や人となりが見えてきてほほえましい。個人的には「予備校営業が突然家にやってきた」がよかった。

第6章「なぜ、人を殺してはいけないのか」は表題どおりの論考だが、ここでは「人間は自由に殺しうるからこそ、自由に(=深く)愛しうる」(p.175-6)という殺し文句に痺れた。第7章「学校教育の意味とは何か」と第8章「キャリア教育の諸問題について」は、専門学校から見た現代の教育(特に大学教育)への痛烈な批判。これを読むと、日本の高等教育の薄っぺらさに寒気がする。

第9章を飛ばして最後の第10章は、吉本隆明論であり、吉本へのオマージュであり、同時に著者の思想が吉本隆明に大きな影響を受けたことを告白する章でもある。ここで感じたのは、吉本隆明への著者なりの「仁義」だった。また別の意味で、ここでは著者の誠実さと律儀さを感じた。吉本の詩がたくさん掲載されているのも、意外だが面白い。

さてさて、それではここで、さっき飛ばした第9章「ツイッター微分論」に戻りたい。なんといっても、この章こそが本書全体の白眉である。ただし、かなり難しい。以下は私なりの理解になるのだが、たぶんかなりの誤り、誤解が混ざっていると思うので、あらかじめお断りしておく。

ここで問題視されるのは「機能主義」(ファンクショナリズム)である。これは内部をブラックボックス化し、「入力」と「出力」の関係で物事を捉える考え方をいう。このとき、重要になってくるのがインプットとしての「環境」である。

ただしこの環境とは、ある種の「でっちあげ」であると著者は指摘する。なぜかといえば、本当にその環境がその結果に結びついたとは誰にも言えないからだ。

本書の例でいえば、イチローは小さい頃からバットを持っていたからあのような選手になったと言われる。しかしバットを持っている子供は他にもたくさんいたはずで、彼らは野球選手にならなかったから、バットを持っていた過去は「環境」としては取り上げられない。つまり問題は、環境そのものというより、環境の「意識化」なのだ。

これが行き着くところが「データベース」だ。とにかく膨大なデータを蓄積し(最近は「ビッグデータ」なんて言われるが)、そこを「検索」することで「必要な」情報をすぐに手元に取り寄せられるようにする。グーグルがやっているのはまさに「そのこと」である。

ところがこれに、著者はツイッターを対置する。そこで何が見えてくるかというと、著者によれば、実はツイッターは、こうしたデータベース主義、ストック主義、検索主義を「やめよう」というメディアなのである。データベースには「入力」と「出力(検索)」に時間差がある。ところがツイッターは常に「現在」である。もっといえば、ツイッター「現在を微分している」メディアなのである。そこには「過去」も「未来」もない。

これは重大な指摘である。なぜなら、過去がないということは、過去のストックからのアウトプットで飯を食っている「専門家」の特権性が、そこでは剥奪されるからである。そこにはある種の平等原理が働いている。東日本大震災ツイッターの有効性が確かめられたという意見があるが、著者が指摘するように、むしろそこで私たちが見たのは、震災も原発事故もプロ野球も「牛丼なう」も同じようにタイムラインに流れてくるツイッターの異様な「平等性」であった。

さて、ここまでもかなりハードな議論だったが、さらにここからは難しくなる。何といってもハイデガーが出てくるのだ。

さて、現在をひたすら微分し続けるツイッターは、過去を無化するだけではない。実は「未来」もまた、そこでは忘れられている。中でももっとも重要な未来といえば「死」にほかならない。ここにハイデガーが重なってくる。著者によると、ハイデガーはこう言っているそうである。

「人間が死ぬということは人間の全体を形成しているけれども、つねにすでに未だないこと、未だないということがつねにすでに存在しているというふうに形成している」(p.343)


ハイデガー哲学については、今の私では到底論ずることも理解することも及ばないので、分かったような紹介は自重したい。正直言って、このあたりからの説明は断片的に「わかる部分」を追うのがせいぜいで、全体の論理を俯瞰するところまでは到底至らなかった。なお中で「行動主義(ビヘイビアリズム)、「心理主義」というキーワードも登場するが、これも割愛する。逃げているようで恐縮だが、詳しくは本書をお読みください。

ここでは最後に、本書の「キモ」であるラストの「新人論」を読書ノートしてみたい。唐突だが、そもそも「新人」とは何だろうか。

さっきの「過去」「現在」「未来」でいえば、新人とは未来に属する人である。ということは、過去の価値では測れない存在である、ということになる。その意味で、過去の権威に認められて世に出る「新人」というのは、本来的には矛盾している。著者はハイデガーを引いて「不可能なものの可能性」と言っている。

ここでは機能主義は文字通り「機能」しない。それは「「因果」でも「相関」でもない、ましてや「論理的」でもない非機能主義的な出来事」(p.376)なのだ。著者はこれを「曲がった時間」と呼ぶ。機能主義的な直線の時間軸では、新人は見通せないのである。

ハイデガーはこれを「走り出そうとしている人」と言ったという(これはカッコいい)。それは可能性そのものである。そして、そこにあるものこそがアリストテレスが名づけ、ハイデガーが解釈したエネルゲイア(エネルギー)」だ。さらに言えば、そんな「〈新人〉を発掘・発見する学校教育最後の牙城」(p.377)であるべき場所こそが「大学」なのである。

ここでようやく「大学」と「新人」と「ハイデガー」と「エネルゲイア」が結びつく。そうなのだ。ようやくのこと、第1章〜第3章の学生への「檄」も、第7章・第8章の辛辣だが情熱的な教育批判も、すべてがここに収斂するのである。本書はバラバラの内容を束ねたように見せて(実際に語られたり書かれたりした場はバラバラなのだが)、実は周到に議論が連関した一個の構造物のような一冊なのだ。しかもおそらく、著者が張り巡らせた思想の糸を、私はまだ半分も辿りきれていない。

いやはや、今までになく長い読書ノートになってしまった。もっと短くまとめることもできたのだが、なんだか書いているうちに止まらなくなってしまった。いや、書くうちに読んでいた内容が整理され、頭の中でつながっていったというべきか。

この内容で書物の〈心〉に届いたとは思わないが、今後も繰り返し紐解き、読みなおしたい一冊であった。ハイデガーなんて無理、ということなら、第1章から第3章までだけでも通読してみてほしい。社会で生きる上ののヒントがぎっしりと詰まっている。