【2463冊目】南直哉『仏教入門』
この著者の本は、以前『老子と少年』を読んだ。未だに忘れられない本だ。著者は禅僧とのことだが、あの本はまったく「仏教臭さ」を感じなかった。むしろタオイズムに近いものを感じた。
本書は正面切っての『仏教入門』を謳った一冊だ。とはいえ、いわゆる学問的な解説書ではない。著者自身が最初に書いているように、これは著者なりの理解に基づく仏教論なのだ。ちなみに著者は永平寺で20年修行をされたとのことで、道元の影響がかなり強く、『正法眼蔵』が多く引用されている。
仏教で避けて通れないのが「悟り」の問題だ。悟りとはそもそも何なのか。学問的な定義はさておき、著者は「悟りとは無明の発見である」と言う。では「無明」とは何か。「言語が物事を実体と錯覚させること」(p.101-102)である。きわめて明快だ。
そもそもすべてのものは互いに関係し合っており、関係の中でのみ存在する。よく言われる例えで言えば、「光」は「闇」があってはじめて光と認識され、「女」は「男」があってはじめて女と認識される。ところがそれが「光」「女」という言葉で言い表されると、我々はそれ自体が単独で存在しうるような気になってしまう。これが「言語が物事を実体と錯覚させること」という「無明」である。
反対に、関係性の中でのみ存在がありうるという考え方こそが「縁起」として、仏教の根本原理となっている。これは「私」についても言える。「私」があるのは「私でない人=他人」があってはじめてそう言いうる。そこから展開されるのが「感応道交」という感覚だ。
これは「他者に自己を発見する」、さらに言えば「他者こそが私であって、私こそが他者である」というものだ。「私」における楽しみも苦しみも、実は他者の存在があってはじめて感じられる。これを著者は「自己を課す他者」という。だいたい、我々の自己そのものが、実は他者に規定されているのだ。それは誕生がそもそもそうであり、幼少期の環境だって自分ではまず選べない。ちなみに「帰依」という行為は、自らそれを選ぶことで自己の主体性を獲得するものだと著者は言うが、むしろ私は、主体性など最後まで徹底的に認めないほうが仏教の本道には沿っていると思う。
そしてもう一つ、私が深く同意したのは次のくだり。
「つまり、仏教が信じるのは『神』ではなく『因果』であり、それは超越的原理ゆえに信じるのではなく(略)、方法的概念だから信じるのだ。このことを道元は『深信因果』と言うのである」(p.92)
この「方法的概念」というのが素晴らしい。他の宗教と仏教が根本的に違うのは、まさしくこの点なのである。学問的にどうかは知らないが、個人的には深く納得できる仏教入門書であった。