自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2391冊目】山岸涼子『黒鳥 ブラック・スワン』

 

黒鳥―ブラック・スワン (白泉社文庫)

黒鳥―ブラック・スワン (白泉社文庫)

 

 

映画の「ブラック・スワン」とは別。念のため。でもどこかモチーフは似ている。

人間の心のダークサイドをえぐる短編4作。若い女にパートナーを奪われる女の嫉妬を描く「黒鳥」、妻を亡くした男と再婚したかつての浮気相手に因果がめぐる「貴船の道」、実の父からの性的虐待を描いた驚くべき作品「緘黙の底」、息子と密着し過ぎて息子を「食べて」しまった母親を描く「鬼子母神」。

一番驚いたのは、平成4年という早い段階で、父から子への性的虐待を描いた先駆的な「緘黙の底」か。「鬼子母神」の描く母子密着も、当時すでに話題となっていたが、今や社会問題となっている。その背景にあるのは、父親の不在。30年近く前から、日本の家族や男女が抱えている危機は何も変わっていないという、そのことに愕然とする。

【2390冊目】渋沢栄一『論語と算盤』

 

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

 

 

西洋におけるキリスト教に相当する価値観を、新渡戸稲造は武士道に見出したが、渋沢栄一の場合は「論語」だった。しかもそれを、商業道徳として持ち出したのがおもしろい。実業にこそ求められるモラルの原点を記した一冊。

刊行が昭和2年というから立派な古典であるが、内容は今でも十分に通用する、というより、今こそ日本人はここに戻るべきなのではないか、とさえ感じる。思えば日本人にとっての価値のベースは、長きにわたって四書五経に代表される中国の古典にあったのだ。だから本書にも論語はもちろん、孟子、大学、礼記などの引用がふんだんになされている。それが今や漢文の授業でさえ「役に立たない」と言われてしまう世の中なのである。お先真っ暗とはこのことだ。

とはいえ、本書は単なる論語の紹介ではない。むしろ渋沢流の道徳論、商業論、国家論、人生論が縦横に展開され、その中にごく自然に、中国古典の知識がちりばめられているといったほうがよい。時代の制約もあって古臭さを感じる部分も多いのだが、それを割り引いても読むに値する本のひとつだと思う。

なお、こんなふうに書くとなんとも凄いことが書いてありそうに見えるかもしれないが、実は本書に書かれているのは、とても基本的で当たり前のことがほとんどである。むしろ渋沢栄一の凄みは、この「当たり前」を貫徹するバランスの良さであるように思われる。「論語と算盤」というタイトル自体が渋沢のバランス感覚を表しているが、各章のタイトルにもそれが出ている。では、章のタイトルと個人的に気になった文章を、ざっと引用してみよう。


【処世と信条】

「失敗は多く得意の日にその兆しをなしておる。人は得意時代に処しては、あたかもかの小事の前に臨んだ時のごとく、天下何事かならざらんやの慨をもって、如何なることをも頭から呑んで掛かるので、動(やや)もすれば目算が外れてとんでもなき失敗に落ちてしまう。それは小事から大事を醸すと同一義である。だから人は得意時代にも調子に乗るということなく、大事小事に対して同一の思慮分別をもってこれに臨むがよい」(p.51)

 

 

→一部難しい文章もあるが、言いたいことは伝わると思う。調子に乗らず小さい事も大事にせよ、ということだ。

 

【立志と学問】

「まず自己の頭脳を冷静にし、しかる後、自分の長所とするところ、短所とするところを精細に比較考察し、その最も長ずる所に向って志を定めるがよい。またそれと同時に、自分の境遇がその志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要で、例えば、身体も強壮、頭脳も明晰であるから、学問で一生を送りたいとの志を立てても、これに資力が伴わなければ、思うようにやり遂げることは困難であるというようなこともあるから、これならばいずれから見ても、一生を貫いてやることができるという、確かな見込みの立った所で、初めてその方針を確定するがよい」(p.73)

 

 

→転職本を百冊読むより、この文章に向き合うべきである。30代で官僚から実業に転じた渋沢ならではの確信に基づく忠言であろう。

 

【常識と習慣】

「偉き人と完(まった)き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格に仮令(たとい)欠陥があるとしても、その欠陥を補って、余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、いわば変態である。それに反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん、偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する」(p.104)

 

→渋沢が言いにくかったことを補足するなら、世には偉くもない非常識人が多いということではないか。「他に超絶した点」がないのであれば、せめてバランスの取れた常識人を目指すべきなのだ。

 

【仁義と富貴】

「如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち、自己一人の専有だと思うのは大いなる見当違いである。要するに、人はただ一人のみにては何事もなし得るものではない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するもできるので、もし国家社会がなかったならば、何人たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。これを思えば、富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う」(p.133-134)

 

 

渋沢栄一は、晩年は救貧事業や社会福祉に巨大な貢献をなした。だから口先だけの発言ではないのであるが、これを当たり前と思う人がどれくらい今の日本の富裕層にいるか、ちょっと心配である。自分だけの力で成功したと思っているバカ成金は、今も決して少なくない。

 

【理想と迷信】

「われわれは飽くまでも、おのれの欲せざる所は人にも施さずして、東洋流の道徳を進め、弥増しに平和を継続して行きたいと思う。少なくとも、他国に甚だしく迷惑を与えない程度において、自国の隆興を計るという道がないものであるか。もし国民全体の希望によって、自我のみ主張することを止め、単に国内の道徳のみならず、国際間において真の王道を行なうということを思ったならば、今日の惨害を免れしめることができようと信ずる」(p.163)

 

 

→この後の日本は結果的に、この思いとは真反対の方向に進んでしまうワケであるが、ポイントはここに「東洋流の道徳」を持ち出しているところではないかと思う。西洋流の帝国主義が猛威を振るい、日本もその流れに乗っていた当時にあって、この発言はなかなかできるものではない。

 

【人格と修養】

「人の真価というものは、容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属する、いわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽くしたる精神と効果によって、すべきものである」(p.195)

 

→成敗とは「成功と失敗」のこと。この見方は後にも何度か出てくるが、一般世間の成功失敗に価値を置いていない渋沢の姿勢がよくわかる一文である。

 

【算盤と権利】

「資本家は王道をもって労働者に対し、労働者もまた王道をもって資本家に対し、その関係しつつある事業の利害得失は、すなわち両者に共通なる所以を悟り、相互に同情をもって始終するの心掛けありてこそ、初めて真の調和を得らるるのである。果たして両者がこうなってしまえば、権利義務の観念のごときは、徒に両者の感情を疎隔せしむる外、ほとんどなんらの効果なきものと言って宜かろう」(p.232)

 

 

→この箇所だけではないが、渋沢の考え方はなんとも理想主義的というか、どこかユートピア的である。上の引用箇所も孔子というより老荘の理想国家論を思わせるが、理想と分かっていてもあえて理想を語ることも、時には必要なのだ。それは「道」を示すということなのだから。

 

【実業と士道】

「国家的、むしろ世界的に直接至大の影響ある、信の威力を闡揚し、わが商業家のすべてをして、信は万事の本にして、一信よく万事に敵するの力あることを理解せしめ、もって経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である」(p.267)

 

 

→これもまた新自由主義の世の中で唱えるには理想論過ぎるかもしれないが、案外、NPOや社会的起業家、あるいはコミュニティビジネスの活動というのはこういうところから始まっているような気がする。ソーシャルビジネスの方向性が見えなくなったら、一度「信」に戻ってみてはどうだろうか。

 

【教育と情誼】

「孝行は親がさしてくれて、初めて子ができるもので、子が孝をするのではなく、親が子に孝をさせるのである」(p.274)

 

 

→短い引用だが、大賛成である。虐待や毒親に悩む子どもたちに伝えてあげたい。

 

【成敗と運命】

「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」(p.311)

 

 

→この前に続く文章は上の【人格と修養】引用文とほぼ同趣旨なので割愛(さすがに手打ちで写しているので疲れてきた)。結果としての成功や失敗より、その人の人生の実質を見るべきであるということだ。「糟粕」の意味が分からない人は辞書を引くこと。

 

【2389冊目】エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

 

飛ぶ教室 (講談社文庫)

飛ぶ教室 (講談社文庫)

 

 
珠玉の児童文学。子供の頃に読むべき一冊だが、大人になって読むと、これがまた沁みるのだ。

寄宿舎というのが絶好だ。それぞれに個性と才能を備えた男の子たちがいい。それを支える魅力的な大人たちが素晴らしい。「正義先生」と「禁煙さん」には、自分が子供の頃、こんな大人に出会っていたら、と思わされる。勇気とは何か。友情とは何か。正義とは何か。男の子たちにとってもっとも大切な「問い」と「答え」が、本書にはみっしりと詰まっている。

生徒たちが先生にもたらした素晴らしいクリスマス・プレゼントとはなんだったのか。貧しさゆえに汽車賃を都合できずクリスマス帰省ができなくなった生徒に対して、ベク先生が行ったことはなんだったのか。それは単なる返礼ではなく、血の通った心の贈与なのである。子供は必読、かつて子供だった大人たちも必読の名著。 .

「ただ一つ、自分をごまかしてはいけません。また、ごまかされてもいけません。不幸にあったら、それをまともに見つめることを学んでください。うまくいかないことがあっても、あわてないことです。不幸にあっても、くじけないことです」

 

 

「かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人がかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめてーいままではしばしばまちがって考えられてきましたがー人類の進歩というものが認められるようになるでしょう」

 

 

【2388冊目】アルフレッド・ランシング『エンデュアランス号漂流』

 

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

 

 
エンデュアランスの意味は「忍耐」。南極大陸横断に挑戦した探検家シャクルトンが率いる船の名だ。ただし、エンデュアランス号は本書の前半のうちに氷に閉じ込められて身動きがとれなくなり、放棄される。残り数百ページはただひたすら、シャクルトンら一行は、氷の上を歩き、あるいは極寒の海の上を小さなボートで漂うばかり。それすらもできず、何日もひとつところに閉じ込められることも少なくない。

ものすごい本である。実話を元にしているとはとても思えない、人間という生き物の耐えうる極限をとことんまで試されるような、試練に次ぐ試練。飢えの恐怖に襲われ、足元の氷がひび割れ、極寒の海で波をかぶり、しかもそれが何日も続く。なにしろ28名の乗組員がサバイバルを強いられた期間は、なんと17ヶ月に及ぶのだ。

人間とは自然の中でいかにちっぽけな存在であるか。そして同時に、人間とはその精神においてなんと偉大な存在であることか。本書を読んでいると、このふたつがなんの矛盾もなく同時に腑に落ちる。アラスカで写真を撮り続けた星野道夫がこの本をこよなく愛したというが、うなずける。文句なしの傑作ノンフィクションだ。

【2387冊目】陳浩基『世界を売った男』

 

世界を売った男 (文春文庫)

世界を売った男 (文春文庫)

 

 

短篇集『ディオゲネス変奏曲』で驚かされた華文ミステリの俊英、陳浩基のデビュー作。最初の作品というのが信じられないくらいの、スピーディで意外性に富んだ展開が素晴らしい。時々挿入される「断片」がほどよいヒントになっているのも巧さを感じる。

車の中で目を覚ました主人公は、過去6年間の記憶がすっ飛んでいる。なにしろ、昨日と思っていた出来事が6年前なのだ。刑事である自分は、その時はどうやら、ある殺人事件を追っていた。たまたま自分とアポイントを取っていたらしい雑誌記者の女性と一緒に、主人公は6年ぶりの「捜査」を始めるのだが・・・・・・。

タイトルの「世界を売った男」は、デヴィッド・ボウイのタイトルから。冒頭に掲げられた歌詞は単なるオマージュかと思いきや、実はこれがアガサ・クリスティマザーグース横溝正史の手毬唄であることに、ある瞬間気付かされる。

主人公らの冒険活劇、無数の伏線が一挙に回収される快感、その先に待ち構えている痛烈なアイロニー。トリック自体は記憶喪失モノの定番であり、なんとなく察しがつく部分もあるのだが、それでも一挙に読ませるのはやはり著者の腕の確かさであろう。これを「新本格」と解説で恩田陸が称賛しているが、むしろ私には、本書はロンドン中で活劇を繰り広げるシャーロック・ホームズの、あるいはデュパンを書いたポオの正統な末裔であるように感じた(とりわけ「自己」の不確かさを不気味に描く技術は、ポオの怪奇小説を思わせる)。

あえて言えば、「車」にまつわる部分で一点だけ不満が残ったのだが、書いてしまうとネタバレなのでここでは黙っておく。まあ、ミステリ好き、本格推理好き、ホームズ好きのどれかにあてはまる人であれば、読んで損はない一冊だ。