【2192冊目】向田邦子『父の詫び状』
「思い出はあまりに完璧なものより、多少間が抜けた人間臭い方がなつかしい」(p.41)
「あとがき」を読んでびっくりした。著者は本書に収められたエッセイを、利き手とは反対の左手で書いたという。乳癌をわずらい、輸血が原因で血清肝炎になり、右手が全然利かなくなってしまったのだ。しかも本書は、著者の第一エッセイ集。それがこれほどの名品揃いなのだから、なんとも空恐ろしい才能である。
暴君だった父の記憶や、戦中から戦後にかけての日々が、息をするように書かれている。台所の音も、食卓の匂いも伝わってくる。そしてまた、その中に語り手である著者自身の声が混じって、響いてくるようだ。
家族の記憶がこれほど鮮明であり、またそれを、これほど生き生きと描けることにも驚かされる。特に印象的なのが、威張り散らして怒ってばかりだが、実は小心で不器用な父の姿。おそらく著者は、腹が立ってしょうがなかった父のことを、こうして文章に書き起こすなかで、はじめて懐かしく思い出し、冷静に捉えなおすことができたのではないだろうか。