【2048冊目】鷲田清一『〈弱さ〉のちから』
「弱さ」ゆえに、感じ取れることがある。「弱さ」ゆえに、見えてくることがある。
ケアの場面では、特にそのことがあてはまる。「強さ」をひけらかすことは、少なくともケアの場面では、有害でしかないことがほとんどだ。ケアの場面で行われていること、それは「ケアの交換」である。ケアをする人が、ケアをされる人に、かえって深くケアをされるような「逆転現象」さえ、そこでは見られることがある。
本書に登場するケアの場面は、多様である。病院や精神障害者のグループホーム、小学校の先生といった「いかにも」な場だけではなく、絶叫コンサートや性感マッサージ、健康ランドといった場所も登場する。むしろそういったあまりオフィシャルでない場所のほうが、ゆきとどいた深いケアを提供していたりするから、おもしろい。
どの場にも共通する要素が、2つある。ひとつはどうしようもないほどの「切実さ」。もうひとつは、そこに漂っている、なんともいえないユーモア感覚だ。切羽詰まっているからこそ、どこか笑いがなくてはならない。それもまた、ケアの場の特徴かもしれない。
どの登場人物も、じんわりと心に残る名言を発している。著者が的確に引き出した、というべきなのかもしれないが。そう、たとえばこんなふうに。
「もっと自然にゆっくりと時間をかけて亡くなってゆくということができるんじゃないかとおもうんですよ。まず、腫れ物にさわるようなことはなくしたいんです」(尼僧・飯島惠道)
「いちばん疎外されているやつがいちばんいいんだね」(住職・歌人 福島泰樹)
「子供たちが見えなくなったものでもなく、子供たちが荒れだしたのでもなく、教師の質が落ちたのでもなく、これまで放置し続けてきたシステムの不具合がついに臨界点にまできてしまった」(小学校教諭・永山彦三郎)
「要するに、今私たちが持っている家族という単位は、社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。ひとつの単位としての役割を既に果たせないほどに小さいのだと思う。それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う」(建築家・山本理顕)
「みんなでなかよく生きていきましょうってひとって、どこか一直線なのよ。ぼくや彼みたいなクネクネオカマは、イデオロギーがそこまでいかないじゃない。あなたはあなた、じぶんはじぶんと」(ゲイバー経営・クロちゃん)
「わたしはきっと、溶けてる身体のなかから曖昧でないものを探しだそうとしている。知らないあいだに肉体の断片から物語を紡ぎだしているのかな。なんかほんとのつながりとはずれたところで」(作家・稲葉真弓)
「男が自分自身に呪縛をかけてまで隠さなければならなかったファンタジーって、一体どんなものなのでしょう。それが見たくて私は娼婦になった面もあるんです」(セックスワーカー・南智子)
「患者さんが発する言葉には、その方の想いのごく一部しか表されていません。ほんとうはこんなことが気になる、いちばん相談したいのはこのことだ、いまの気持ちをどう話せばいいのかわからない……」(東京SP研究会・佐伯晴子)
「感情を取り戻すためには、逆に四つんばいになっていたころのことを、からだで思い出す必要があるんです」(ダンスセラピスト・高安マリ子)
「自分が予想している以上に乱れている相手を、自分の中心に入れてしまうんです。それができるかできないかですよ、生け花は」(生け花作家・中川幸夫)
「苦労は生きているひとみんなにある。「治る」というのは生きていくうえでの別の苦労に戻ることでしかない。『だから病気を治すとか克服するということではなくて、人間には生きていくうえでいろんな苦労があるよね。どの苦労を選ぶ? そのセンスを重視するのです」(べてるの家・向谷地生良)
「こういうふうになってかなくっちゃ、ということはいつでも話しているけれど、こうしなくちゃだめよ、とは絶対言いません。型を抜ける子があればそうしてどんどんやっていったらいいし、型を真似しているばかりでも早く抜けなくちゃとは言わないです」(沖縄アクターズスクール関西チーフインストラクター・牧野アンナ)