自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2670冊目】白洲正子『両性具有の美』


解説で大塚ひかりが書いているとおり、「両性具有」とはいっても、本書に書かれているのはすべて「男性の女性化」としての両性具有の話であって、しかも題材はほとんど日本の歴史や物語からのものである。しかも、そこにはほとんどの場合「男色」つまり男性同性愛がセットになっている。


本文中に、面白い指摘がある。ジャン・コクトーが描いているような西欧のホモセクシュアリティは、多くが「地中海の太陽と風にさらされた鋼鉄のような肉体」として描かれる。「彼らの理想は完璧な男性になること」なのである(p.62)。確かに、前に読んだジュネの『泥棒日記』でも、男性同性愛は「きわめて男性的な行為」として描かれていた。その起源は、プラトンのアンドロギュノス、つまり古代ギリシアの同性愛文化にまで遡ると思われる。


これに対して、日本では、著者のいうところのゲイ・ボーイの多くは「女の模倣」をしており「女以上に女らしい男は大勢いる」(p.61)。歴史を遡っても、「衆道」などと呼ばれた武士の中のホモセクシュアルで寵愛された若衆や小姓は、たいてい「女性的な男」である。


ただ、これがただの「男性の女性化」なのかというと、これがちょっと違うらしいのだ。例えば、この手の話ですぐ思いつくのは歌舞伎の女形だろうが、男色研究でも膨大な実績のある南方熊楠女形のことを「それでは女になってしまって、若衆や小姓の情緒はさっぱり写らず」(p.128)と言っているという。これを受けて著者はこう書いている。「このことは単なる女々しい男と、男の精神を持ちながら女のような美貌をそなえた若者をはっきり区別して考えていたことを示しており、次第に『浄の男道』なるものへ近づいて行く」(同頁)。南方熊楠のいうこの「浄の男道」の独特な感覚は私にはなかなか掴みづらいが、このあたりに日本の男性同性愛感覚や、両性具有感覚の秘密がひそんでいるのではないか、とは思う。


著者のこの「外から見た男性同性愛感覚」は、著者自身が小林秀雄青山二郎らの「男性同士の友情」を見ていた感覚にも近いのだろうか。そしてまた、少なからぬ数の女性がBL小説にハマる理由も、ひょっとしたら近いものがあるのかもしれない。的外れかもしれないが、そんなことを感じたふしぎな一冊であった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!